2009年 08月 23日 ( 1 )

アラビア語講座3

今日は、教会で行われているアラビア語講習会の第3週目だった。

c0019613_203432.jpgだんだんと授業のやり方に慣れてきた私は、挨拶言葉の説明と練習についていくのはあきらめた。ただ、一緒に真似して言うだけだ。意味も、一緒に言ったあとで説明するから、何のことか分からずに、奇妙な音を発しているに過ぎない。理解を伴わないのだから、ちゃんと記憶に残るわけがない。効率はひどく悪い。

今日なんか、書き写すことすらできなかった。一部だけ、ローマ字で、Min aina anta? Whrere are you from? Ana min Kuuriiya. I'm from Korea. Nachnu min Kuuriiya. We are from korea. とだけメモしてある。文字を書き写せなかったのだ。ローマ字でメモできたのは、anta はヘブライ語の ata に似ていて、ana は ani、nachnu は anachnu に似ているからだ。忘れていたはずのヘブライ語の知識が、頭をもたげてきたのは不思議なことだ。(min はヘブライ語の me に似ていると思ったけれど、あとで辞書を引いてみたら、ヘブライ語でも原型は min ということだった。)

それでも先生は、「지난 주에 했죠?(先週やりましたね?)」と受講生たちに確認を取る。それは覚えていない。なにせ、文字だってまだ不完全なのだから。先生の質問に、先週確かに学んだと答える受講生は、すでにアラビア語を知っている人たちだ。

ただし、韓国人の先生の文字の説明は、なかなか分かりやすい。そもそもアラビア語の字母が、体系的に配列されていることが、説明を論理的にしているのだと思うけれど、その先生の師となった人の説明が、きっと優れているのだろう。よい教え方は、教授法の思潮が嵐のように変遷する中でも揺らぐことなく、そのまま師から弟子へと伝わっていくものらしい。なぜそう思うか。その他の知識の提示方法はハチャメチャなのに、文字の説明だけは際立って優れているからだ。輝いているとさえ言える。

一方、発音の説明は、私には難解だ。おそらくその発音を身に付けている人が聞くと、まさにその説明どおりなのだろうけれど、発音の要領が分からない人間にとって見れば、説明をどのように発音方法に結びつけたらいいか、途方にくれてしまう。たとえば、Sin と言う文字は「얇게(薄く)」発音するという。音声学にはそのような説明のしかたがないので、それをどのように、音声学的な記述に翻訳したらいいのか、考え込んでしまう。まるで、濁音を教えるときに、「重く濁った感じで発音します」と説明するようなものだ。そういう説明でちゃんと発音できるようになる学生は、説明なんかしなくても、模範発音を聞かせるだけで、正しく発音できるようになる。

たぶん、韓国人の先生は、かなり発音はいいはずだ。けれども、韓国語の特徴が混在している感じがした。そのためかどうかは分からないけれど、紛らわしい音の区別があまり明瞭に聞こえない。そこから私が学んだら、本当の発音からさらに遠ざかること請け合いだ。

そこで、授業のあと「질문 있으신 분(質問のある方)」というので、紛らわしい音を対照して聞かせてほしいと頼んだ。一つは、sin と sad、もう一つは alif と ayn だ。このブログのローマ字では同じ発音みたいになってしまうけれど、それぞれの音は、意味の違いを発生させるため、しっかり区別しなければならない。「원어민 발음(ネイティブの発音)」を聞きたいと言ったら、韓国人の先生は決まり悪そうに苦笑いをした。いや、申し訳ない。

しかし、やはりネイティブの発音は、確かに音色の違いをはっきりと見せていた。sin と sad は、舌の立て方も若干違うようだったし、それに後続する母音の音色にも違いがあった。alif と ayn は、もっとはっきりした音色の違いを見せた。alif は声門をパッと開くときの、アッという音が聞こえる。それに対し、ayn は、咽頭を締め付けてポンと開くような、重く深い音が聞こえる。

相変わらず、授業中には、ああやってくれ、こうやってくれという要望が出てくるけれど、毎回要求をする年配の姉妹、つまり、おばさんは、職業が教師だということが分かった。あと一人、授業の仕方に対して要求した人がいたけれど、その人の職業は分からない。だけど、少なくとも私も含めて授業中に教師に教え方を要求するのは、教師が多いことが確認された。教師は教師に対して謙虚ではない。でも、それらの要求を先生が呑んでくれたときには、確かに授業は格段とよくなる。なにせ、私にしろ、その人にしろ、教え方の要求を出すとき、若い2人の先生は滅茶苦茶なことをやっているからだ。

今日は、mim まで習った。あと4つの文字が残っている。それは、来週のお楽しみ。

この講座に、私の知っている姉妹が出ている。そして、来月あたりからアラビア語の聖書を読む講座を始める予定だけれど、あなたも出るかと言った。それは無理というものだ。文字は一応読めるヘブライ語だって、その複雑な形態変化ゆえに、まともに辞書すら引けないのだ。同系のアラビア語は、文字すら心もとないうえに、どんな変化形が待ち構えているかも知らない。いまアラビア語訳の聖書に首を突っ込んだら、100円得るために1000円注ぎ込むようなことになる。

私はこの講座で、まず何よりも、文字を身に付けることを第一としている。そして、その次の段階は、本当にその次の段階で、文字を身につける段階で提示された表現に関しては、あきらめた。
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by ijustat | 2009-08-23 23:30 | Language Learning