はじめに理屈ありき!

高校生の頃、日本語は論理的でないということを学校の図書館から借りてきた本で読んだ。学校の先生も、日本語は論理的でないと言っていたような気がする。日本語に関して言及された文では、たいてい日本語は論理的でないと書かれていた。

私はそれを真に受けた。というより、父の口から発する非論理的な言葉の数々を見て、日本語が論理的でないことに納得してしまったのだった。それは本当に不幸なことだった。少なくとも父が論理的にまともな話し方をしていれば、私は日本語が論理的でないというでたらめを信じることはなかったはずだ。

日本語を教えながら、上級の学習者に文章の読解を教えていると、文章の達人たちがいかに繊細な論理を巧みに操っているかが分かり、驚くばかりだ。文の構造とそれぞれの語の意味を巧妙に組み合わせて、全く無駄なく、しかも複線を敷いて、うねらせながら、読者を引き込んでいく。その構造を分析して“非論理的だ”と言えるわけがない。日本語は驚くばかりに論理的な言語なのだ。

今回日本に戻って父と話していたら、漢字をあまり知らない中学生の上の子に、文通によって日本語を鍛えてあげると言った。しかし、私は父の文章は嫌いなのだ。いろいろ豊富に単語を持ってきては使うけれど、結論として何が言いたいのか分からないこともあるし、分かったとしても、思索が浅くて読むに堪えない。そんな空虚なものを孫に読ませて何の教育をするというのだろう。

それで、文通なんかするよりは、街に出て漢字を教えると言ったら、論ずるより実践あるのみと言う。どこまでも文通を正当化させるつもりらしい。またかと思った。父は、自分では理屈っぽく自分の意見を言うくせに、言い返されると、理屈を言うなという。父は「理屈」を「屁理屈」とほぼ同義に使っている。

しかし、この世界は理屈によって出来上がり、理屈によって動いている。ヨハネの福音書の冒頭にも、「初めに理屈があった」と書いてある。え、そんな馬鹿な、“ことば”とは書いてあるけれど、“理屈”だなんて書いてない! と言われるかもしれないけれど、原語では“Εν αρχή ην ο λόγος,”と書かれていて、この“λόγος(ロゴス)”は単に“ことば”以上の広い意味を持っている。

昨夜買った『師道』(小原国芳著、玉川大学出版部)を読み始めたら、こんな言葉に出くわした。

「バイブルのヨハネ伝第一章の第一節にあるように「はじめに言(ことば)ありき。言は神と共にありき。言は神なり」とありますが、英語の聖書にも、In the beginning was the word. とあります。ドイツ語の聖書にも Im Anfang war das Wort. とあります。
 ところが、中国語訳の聖書には「元始有道」とあります。原本のギリシャ語の聖書にはロゴス(logos)とあります。ロゴスという言葉の中には「ことば」という意味もある外に、更に宇宙の大道、大法、理法、理性という高く深い意味があります。」(p.7)

この著者の言いたいことは、それを受けて「実に、武士道、騎士道、柔道、剣道、弓道、茶道、華道、書道、角力道と、道でありたいのです」(p.8)と言っているように、別のところにあるのだけれど、これが面白いと思ったのは、多くの知識人が「はじめにことばありき」という一句を引用する時、文字通り日本語の「ことば」かせいぜい英訳聖書の“Word”を見ながら云々しているだけなのに対し(“豆単”の序文もそうだったけれど)、原語の「ロゴス」にまで遡って考えている点だった。この句が述べている意味の深さは、日本語や英語に訳されたものでは感じることすらできない。

中国語の「道」という訳語はなかなか奥妙だ。これは「みち」から「言う」まで、幅広い意味を持っている。「元始有道」という句は、「道可道、非常道(口で説明できる理屈というのは、不変の理屈になりえない)」という『老子』の冒頭の句を連想させる。「道」は「ロゴス」によく似ている。老子は、この冒頭の一句からも分かるように、言葉で言い表されたロゴスを信用しなかったけれど、ロゴスは人が口で説明できようができまいが、もとから存在するものだ。

理屈(=ロゴス)によって世界は動いている。それを私たちは実践だけで見つけることも難しいし、闇雲に実践したとしても、それが理屈に合っていなければ、不毛な努力を続けるばかりだ。理屈は空論ではない。理屈を見つけるために、多く学び、多く経験し、更に考察を加えることを、「実践」と対比させてしまうのは、実践そのものの足場をも否定してしまう態度だ。

そういうことが平気でできる人の日本語は、当然「非論理的」といえるだろう。そういう人たちは、理屈として成り立たない非論理的な自分の言葉を「日本語らしい」と思い、誇りを持つかもしれない。しかし、彼らは日本語を豊かにすることに貢献はできないだろう。日本語は論理的だし、生産的だ。日本語で書かれた名作は、論理的な日本語で書かれている。それが明瞭(または露骨)に表れていないだけだ。

「初めに理屈があった。この理屈は世界の創造者と一緒にいた。そしてこの理屈こそ、創造者なのだった。」だから、理屈を求めることは、大切な態度だ。そして、日本語は論理的な言語だ。日本語を用いて、人々の経験や身の回りの自然から、その背後に存在する理屈を見つけ出すことは、可能なことだ。そしてこれは、実に日本的な態度だ。なぜなら人間は生まれながらにして「統語能力」という論理的に言語記号を操る能力を備えているし、日本人もその例外ではないからだ。その言語能力の上に日本語は立っている。その日本語は、理屈を通して神に繋がっている。

最近になって、“日本語非論理”論に反論を唱える声が強くなってきたようだ。統語論も意味論も、日本語の論理性を証明するばかりだった。それによって、知識人たちが唱えていた日本語の非論理性がどれだけ杜撰な論であったかが明らかになった。いや、論理的におかしな表現というのは、いつの世でもどの言語でも生じるものだけれど、その特徴は、多くの人たちが“変だ”と感じ、次第に使われなくなることが多いという点だ。その点では、どの言語でも非論理性を含んでいるといえる。それにもかかわらず、まだ日本語が他の言語に比べて非論理的だと信じている人は多いだろう。それだけ、俗信というのはしぶとく生き延びる。しかし、日本語は論理的な言語だ。だから、誰でも自信を持って、日本語で理屈を追求していった方がいい。
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by ijustat | 2005-07-25 12:52 | Japanese


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