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“Ευαγγέλιον το κατά Ιωάννην”

最近ギリシア語の勉強は、夜寝床の中で“Ευαγγέλιον το κατά Ιωάννην(=ヨハネによる福音書)”を少しずつ読み進めている。昨夜は16章まで読み終わった。

これはイギリスの The Trinitarian Bible Society から出た“Η ΚΑΙΝΗ ΔΙΑΘΗΚΗ(=新約聖書)”というタイトルの聖書で、テキストは有名な“Textus Receptus”を使っている。このテキストは1611年に出版されたもので、その後3世紀にわたって絶対的な権威を誇っていたのだけれど、最近はあまり重んじられていない。しかし、そのテキストを用いたこの本は、活字が比較的目に優しく、校訂注がなくてすっきりしている点と、そのため他の原語聖書よりも薄いという理由から、携帯しやすい。そういうわけで、このテキストを読み進めることにした。

今まで聖書の本文は汚さないようにして読んでいたけれど、14章から重要な箇所や印象的な部分に線を引きながら読むことにした。ただ、ボールペンや色鉛筆を使うのはどうも気が引けて、鉛筆で遠慮がちに線を引くことにした。これなら線の引き方が見苦しくても、すぐに消しゴムで消せるからだ。

線を引きながら読むことは、原語聖書のような大切な本を読む場合にも必要なことだと思う。難しいので少しずつ読むのだけれども、途中でどこまで読んだのか、自分がこれから読む部分の直前にどんなことが書かれていたのか、思い出せないことがよくある。そのとき、印象的な部分に印がついていれば、自分が直前の部分までどのように読んでいたかを比較的容易に思い出すことができる。

ギリシャ語のテキストを読みながら意外に苦しむのは、動詞の活用よりも、όσοι だとか όπως、όστε、ούτως などのような機能語の理解だ。これがちゃんと理解できないと、文章全体の理解が崩壊する。しかもその用法がどれも多彩なので手に負えない。辞書を引くと、用例がほとんどなく訳語だけが羅列されている。これでは意味の特定が困難だ。どうしても理解できないときは、英訳や日本語訳を対照して、やっと何とか理解できる。

もちろん、単語の形態的な記憶があやふやなためにこんがらかることは多い。つい数日前にも、“δόξη”(※“η”には下付のイオタがある)という語が出てきて、この原形をなぜか“δοκώ(=考える)”とこんがらかって、“δόκω”だなんて存在しない原形の接続法3人称単数だと思い、文が理解できなかった。で、考えあぐねて“A Grammatical Analysis of the Greek New Testament”という参考書を取り出してみると、“δόξα(=栄光)”の与格単数だった。動詞と名詞を取り違えていたのだった。

こういう読み間違いが起こりやすいのは、文脈がしっかり把握できない部分で、特に難解なモノローグが続くうえに段落分けを1ページ以上もせずにのっぺりしたテキストが延々と続く場合に起こる。意外にも、センテンスが長いことはあまり問題にならない。むしろ段落分けが長い間なかったり、機能語がたくさん使われていたりすると、とたんに文章の理解が困難になる。

いや、新約聖書なら何度も読んでいるはずなのだから、そういう部分も類推で理解してよさそうなものだ。しかし、読んだ内容というのは案外記憶に残っていないものだ。あらためてギリシア語で読みながら、時として、思いがけないことが書いてあってびっくりすることもある。本当にそんなことが書いてあっただろうかと訝りながら、信じ始めた頃から使っている新共同訳を取り出して見ると、確かにそう訳してあった。よく指摘されることだけれど、私たちが「読んだ」というのはこの程度のもので、4~5回読んだ本でもずいぶん読み落としがあるのだ。

で、“Ευαγγέλιον το κατά Ιωάννην”は6月末日までに読み終わるようにしたい。
by ijustat | 2005-06-19 15:14 | Greek


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