古本屋の意義

もし古本屋がなかったら……。

それは、考えただけでも悲しいことだ。もし古本屋がなければ、手に入るのは、新刊書だけだ。しかし、必要な本のうち新刊書はごく一部に過ぎないから、もし古本屋がなくなれば、私たちは、知的栄養の供給源をごっそり失ってしまう。

しかし、韓国では、平然と古本屋の価値に疑問を呈する人が多いらしい。その人たちの考えでは、文化というのは発展していくものだから、古い遅れた文化を捜し求めて読んだって、時代遅れになるだけではないかというわけだ。최종규氏が、そういう質問をされたことへの鬱憤を、何かの文章でぶちまけていた。

私も최종규氏に同感だ。だいたい、文化が「発展」すると考えること自体が、何か勘違いをしているのだ。文化というのは、以前のものを土台にした上に成り立っているものだ。以前のものが失われれば、それに対する現在の文化も失われる。以前のものが多ければ多いほど、その文化は豊かだし、それが貧弱なら、その文化は貧弱だ。

韓国には豊かな文化があったし、それらは今でも絶えず生産され続けているけれど、その一方で、卑近で大衆的なものに価値を認めない傾向が強いためか、大衆的で魅力ある文化がどんどん消えていっているというのが、韓国の実情だ。古本屋も、その一つかもしれない。そういう状態では、伝統文化を育てていくことは難しいだろう。認識ある人たちは、ただ胸を痛めているだけだけれど、최종규氏は、そういう好ましくない状況について、一人で声に出して叫び続けている。

古本屋には、いくつかの重要な意義がある。

第一に、古本屋は、過去を見せてくれる。考えてみれば、“発展”したという文化にしか価値を見出さないというのは、悲しい話でもある。私たちは、興味に導かれて、その世界へのめりこんでいくのであって、それが“発展”したものだからではない。興味というのは、新しいものも古いものも関係ない。新しい音楽に魅せられて、それを追っていたとしても、数十年経てば、それは遠い昔の曲になっている。私たちはそれを思い出し、懐かしさとともに、現在流行している音楽とは違う魅力を味わう。昔に比べて今の曲は発展し改善されたなんて思う人は、かなり珍しい部類に属するだろう。外国の音楽の場合は、それが現在流行っている曲なのか、何十年も前の懐メロなのか、区別すら付かないことが多い。これは、客観的に見れば、文化は発展するものではないことを見せてくれているに違いない。現在しか知らない人は、実は現在すらも知らないのだ。もちろん、昔のものが優れていて現在のものが劣っているわけではない。けれども、現在というものが、過去から未来へ続く歴史の流れのひとこまに過ぎないことを気づかせてくれるのは、過去だ。

私たちは、過去についていろいろと話を聞いているので、よく知っている気になっている。ところが、実際にその時代に書かれたそのものに触れてみると、およそ様子が違っていると感じることがよくある。100年前の新聞を読むと、思いがけず現在と同じ考え方をしている部分もある一方、考えてもみなかった部分で、現在の私たちとは大きな壁があることに気づかされる。200年前のものになると、書かれている文字を読むのにも骨が折れる。100年前に印刷されたものですら、読めないと言って、匙を投げ出す人もいるくらいだ。当時の人たちは、それを読んでいたのだ。過去を知るというのは、このような点にも気づくことだ。当時の人たちが、現在と同じ言語生活を営んでいたと考えてはならない。

第二に、古本屋は文化を継承してくれる。学術書を見てみると分かるように、そこにはおびただしい数の参考文献が挙げられている。それらの発表された年を見れば、かなり昔のものも混じっているはずだ。それらは、その研究が始まった当初のものだ。もしそれらの業績がなければ、今手に取って読んでいる研究も、存在し得なかったわけだ。そして、この研究も、後の研究の栄養源となっていく。そして、ここが重要な点だけれど、古い業績も、ずっと栄養源になり続けていくのだ。

学術書のようなものは、それを利用する人が限られている。だから、よほど有名な著作でない限り、書店にずっと置かれていることはない。それでも、学術書の場合は、図書館や大学の研究室で保管をしているから、まだいい方だ。学問分野にもなっていない、ある特定のことを関心分野にしている場合は、新刊書店で手に入らないだけでなく、図書館にもその本がないということもあるだろう。もちろん、そのような本は古本屋でも見つけにくいのだけれど、やはり最後の頼みの綱は、古本屋ということになる。日本でも韓国でも、古本マニアはこのような分野の本に関心があることが多い。

第三に、古本屋は、文化を抹殺から守ってくれる。言論統制が激しくなり、ある種の内容を扱った本が所持しているだけで処罰されるようになると、それらの本を内密に保管し、流通させるのは古本屋の役目になる。『고서점의 문화사』(이중연著、혜안、2007)によれば、わが国が韓国を植民地支配していた末期、朝鮮総督府は韓国語の本を流通させることすら禁止した。ほとんど断末魔の叫びのような処置だったに違いない。そのとき일성당(一成堂)の主人황종수氏は、日本が太平洋戦争にもうすぐ負けることを察して、力の及ぶ限り韓国語の本を買い集めたと言う。そして、本当にわが国は戦争に負け、韓国は日本の支配から解放された(p.90~91)。このような活動は、日本に支配されていた時代だけでなく、軍事政権の時代にもあった。『資本論』は当時の韓国では禁書中の禁書だったけれど、それを密かに所持し、必要な学生に売っていたのは、古本屋だった(p.89)。

これは、韓国だけではない。千野栄一の『ビールと古本のプラハ』(白水社、1997)を読むと、共産主義がチェコを支配し、秘密警察が闊歩していた70年間、禁書となっていた本を古本屋は密かに所持し、なんと、共産主義体制が崩壊するのを待っていた。それは、明けるのかどうかも分からない、長い長い夜を過ごすようなものだったに違いない。そして、1990年。共産主義の時代は本当に幕を閉じた。そうやって、古本屋はそれらの本を必要な人に売り始めた。千野栄一氏も、そうやって貴重な本を手に入れたと書いている(p.76~78)。

もし新刊書しか手に入らないとしたら、韓国では김동인や이광수の作品は現在伝わっていなかっただろう。チェコにしても、共産主義体制に合わない思想はすべて消滅してしまっているはずだ。古いものが残らなければ、現在記録される歴史は、時の支配者の思想で塗り固められる。長い時代を通じて流れているその文化の精神は伝わらず、過去はいつも憶測でしかない。もし世の中から古本屋が姿を消したとすれば、本は所有者が死んだら捨てられ、他に誰も読むことができない。その文化が抱えている精神的な価値は、次々と過去の闇の中に消えていく。そんなことで、どうやって私たちは未来が予見できるだろうか。いつもいつも、気が付いたときには思いも寄らない時代になっているのだ。そして、昔から今と同じようだったに違いないと思っている。想像しただけでもゾッとすることだ。

このように古本屋は、過去を私たちに見せ、文化を継承し、文化を抹殺から守ってさえいる。そのようにして私たちに、時代に偏らない、バランスの取れた知的栄養源を供給しているわけだ。そういう古本屋を粗末にするのは、決して好ましいこととはいえない。
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by ijustat | 2010-02-05 10:36 | Bookshops


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