文章

つくづく嫌気が差すのは、私は文章が下手だということだ。まず、つぎはぎで修正していくために、流れが悪い。そして、ぎこちない言い回しが多い。さらに、魅力に欠ける。そうやって自分の文章の欠点をあげつらったあげく、私の文章が下手なのは、父が下手糞な文章を書いて自己満足しているからだと、人のせいにし始める。でもまあ、自分の現実が自覚できるだけでも救いかもしれない。

それでも、あとで読み返してみて、まあまあ良く書けていると思うことも、たまにある。これは、闇雲に撃ちまくった鉄砲が、たまに的に中ったようなものだ。そこで、自分はどんな文章が書けたときに満足するのだろうか。そんなことを考えてみた。

まず、複眼的に書けたときに満足するようだ。どんな事象でも、いろいろな側面がある。そのすべてを見ることはできないとしても、いくつかの側面からは見ることができるだろう。しかし、私は往々にして、一面から物事を見てしまいやすい。そうならずに、少なくとも二つの側面から見ながら書けたとき、満足するようだ。

次に、よい思想が文章に込められたとき。よい思想というのは、思いやりや、人を大切にする態度だ。自分に本当にそういう思いがあるかどうかは疑わしいけれど、もし疑わしいからといって、この思いやりや人を大切にする態度を否定してしまったら、自分自身を害するだけでなく、私の書いたものを読んだ人にも悪い影響を与えるかもしれない。よい思想が私の腹の中から出てくるのを待つのではなく、私がよい思想に服従し、そのしもべになるべきだ。

そういうわけで、大事なのは器よりも器に盛る中身、つまり、形式よりも内容だ。だから、始めはとにかく書くことにしている。そのためといっては何だけれど、最初に書きあがったものは、構成がかなり乱れている。整わない構成ばかりか、不適格な言葉、しっくり来ない言葉、舌足らずな部分、無駄な言葉が乱舞する。それらは仕方がない。書き終わってから時間を置き、あとで校正する。時間がたつと、自分の文章も他人の目で見られるようになる。そして、時間を置いて何度も見直すことで、数人のチェックを受けるのと似たような効果を得ることができる。もちろん、数人とはいっても、書いたときの自分の水準を超えるものではないけれど、岡目八目といって、傍から見れば、ああすればいいのに、こうすればいいのにといった修正案が思い浮かびやすい。もっとも、見るたびに不自然な表現が目に付くのは困り者だ。一つの段落が全部不要ということも、必ずといっていいほどある。こういう形式的な不完全さが、私をいちばん悩ませる。

形式といえば、文は短い方がいいのだろうか。原則としては、そうだろう。自分の文章を読み返したとき、だらだらと長く続いていることがよくある。それは、しまりがなく、見苦しくも感じられる。とはいえ、だからといって、すべて短く書かなければならないとも思えない。はんなりした雰囲気、煮え切らない気分などを表したいとき、簡潔な文章では、うまく表現できない。それに、文が短いほど、語調は強くなるし、時にはぶっきらぼうにもなる。優しさを伝えたいとき、そんなごつごつした、箱にじゃが芋が詰まっているような文章では、気持ちも伝わらないだろう。だから、文章の長さは絶えず自覚している必要がある。そして、あるときは長く、あるときは短く、意識的に文章の長さを調節するわけだ。

同じように、断定口調がいいのか。それとも、婉曲な言い回しがいいのか。これに関しては、誠実であるべきだというのが、私の意見だ。ある人は、断定できないことは書くなと言っていたような気がする。それは無理だ。断定を避ける様々な表現は、自分と情報との関係を正確に表すためにあるのだ。見たことや聞いたことは、断定できても、そこから引き出される自分の考えは、手放しに断定できないことが多い。語尾は断定形だったとしても、文の前に、「その範囲で言えば」のような限定表現を付けて、断定を回避することもある。もしそのような安全装置をつけないで、限られた情報から、無理やり結論を導き出して断定するなら、読み手はどう思うだろうか。たとえば、ある外国人が、「尾崎さんはピーマンが好きだそうです。田中さんもピーマンが好きだと言っていました。だから、日本人はピーマンがすきなんです」なんて断定したら、この人はちょっと曲者かもしれないと思うだろう。けれども、「ということは、ひょっとして日本人は、ピーマンがすきなのかも知れませんね」と言うのだったら、まあ許せる。誰でもそういう疑念は心をよぎるだろうから。

でも、文章を本当に価値あるものにするのは、形式ではない。それは基本的に身に着けておくべきもので、それができて文章が優れたものになるわけでもない。立派な語彙と整った形式で表現されたものが、月並みな思想、型にはまった観察だったら、価値ある文章だとは言えないだろう。本当に価値ある文章にするのは、内容なのだけれど、「内容」という言葉では言い表し切れない、そこに込められた、あるいは、しみ込んだ“何か”が、文章の価値を高めているらしい。それが何なのかが分かればいいのだけれど、その“何か”は、なかなか本性を現さないし、それを探し出す公式もなさそうだ。何しろ、価値ある文章というのは、千差万別なのだから。ただ、すばらしい、魅力的な文章に接するたびに、その秘密が分からなくて歯がゆい思いをするばかりだ。一生懸命悩み続けるしかないのかもしれない。

それでも、悩んでいると、悩むツボを教えてくれる言葉に出会うことがある。以下は私の出会った言葉。出会った順に紹介しよう。(出会いはしたけれど、ふと気づくと、それらはまったく身についていなかった……)

●板坂元氏は、「わたくしは、名著といわれる本や、一世を風靡したベストセラーなどを、内容をはなれて、情動的なレベルではどういう状態になっているか、を黄色のダーマトグラフで線を引いて調べることがよくある」(『考える技術・書く技術』講談社現代新書、1973、p.131)と言っている。そうやって得た氏のノウハウ(同書、p.130~162)は、なんと魅力的なことか。それはともかく、自分から名著やベストセラーを研究するのがいちばんいいようだ。

●한비야氏は、自著が世代を超えて人気を博している秘訣について問われたとき、「만만한 거죠. 저는 독자들을 가르치려고 하지 않으니까요. 제 눈높이가 바로 젊은 독자들 눈높이예요. 전성기를 향해 항상 진행형이라는 게 젊은이들과 같은 거죠. 나이 들면 사람들은 세상 다 산 것처럼 ‘돌아보니 이렇더라’고 쓰기 십상인데 저는 반 발짝 앞에서 제가 목격한 세상을 보여주면서 선택의 폭을 넓혀주는 거예요. 멀리 떨어져 훌륭한 일을 하는 사람이 아니라 똑같이 누군가를 욕하기도 하고, 깨져도 앞으로 조금씩 나가려고 무진 애를 쓰는 언니, 누나로 보는 거지요.」(2008年1月『한겨레』とのインタビュー;『한국의 글쟁이들』구본준著、한겨레출판、2008、p.59~60)と答えている。

●関口存男氏は、「まず自分の考えていることを一抉り、二抉り、三抉り、右から抉って届かなかったところは左から抉って掘り下げ、左から抉って抉り足りなかった所は右からメスを廻して底を衝くといったようなあんばいに、誰が考えてももはやこれより以上は考えられないというところまで考え到った上でなければ、ほんとうの表現ができるものではない」(「ひねれ」『基礎ドイツ語』1956年12月号;『関口存男の障害と業績』三修社、1959、p.310)といい、さらに「ひねった上に、更にもう一ひねりひねれ! 指先だけでひねり足りなければ、全身でひねれ! はらわたの体操になる。全身でひねってもまだひねり足りなければ、こんどはモウやむを得ない、いよいよ本腰を据えて“全人”でひねれ!」(同書、p.312~313)と言っている。
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by ijustat | 2010-01-20 09:06 | Life


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