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頼りないアマゾンの書評

以前、アマゾンで文章作成関係の本を物色していたとき、カスタマーレビューで樋口裕一氏という作家が人間性をあしざまに言われているのを読んだ。私は樋口氏について何も知らなかったので、ひどい著者に違いないと思い、その後書店でこの人の本があっても手に取ることすらしなかった。

しかし先日、野口悠紀雄氏の『「超」文章法』(中公新書、2002)を読んでいたら、そこに樋口氏の著書が挙げられていて、好意的な評価がなされていた。それを見て、アマゾンのカスタマーレビューに何か問題があるかもしれないと感じた。

野口氏が参考にした本の中で、たまたま『論文のレトリック』(澤田昭夫著、講談社学術文庫、1983)を持っていたので、それを読んだ。すばらしい本だった。そこで、それをアマゾンのレビューで見てみると、やはりほとんどが好意的な評価をしていた。ところが、ある読者は、星を一つだけ付けて、「工学系の私には何の参考にもなりませんでした」と書いていた。『論文のレトリック』は、文系用の論文に限っているわけではない。それにもかかわらず、「文系向けの説明だけで,読んでいて嫌になりました」と書いているところを見ると、具体例にばかり目が行って原則が見えなかったのではないだろうか。

具体例にばかり目が行って原則が見えない例といえば、長澤信子氏の『まだ遅くない楽しく身につく 長澤式外国語上達法』(海竜社、1999)には、次のような話が出てくる。

長澤氏は、中国語を勉強したとき、100回の練習を実行するためにマッチ棒を100本用意した。それを箱に入れて、言った数、書いた数だけ減らしていき、成果を目で見えるようにした。そのことを、『台所から北京が見える』という本に書いたところ、ある日読者から電話がかかってきて、「家にはマッチがありません」と文句を言われたそうだ。長澤氏は、「別にマッチ棒でなくてもいいんですよ。碁石とかおはじきとか、身近にあるもので」と答えた。するとその人は、「どれもありません。どうしたらいいでしょうか」と喰らいついてきた。

そのときのことについて、長澤氏は「私もほとほと返事に窮してしまったが、これは頭の柔軟性の問題。私はたまたま家にマッチ棒があったのでそれを使っただけのことで、要は数がわかり、お金をかけずにすぐ手に入るものならば何でもよかったのだ」(37ページ)という感想をもらしている。

長澤氏の方法の要点は、練習回数を管理しやすくするために、物を使って可視化したということだ。そういうことを書いたのに、読者からマッチ棒にこだわられて困ってしまったわけだ。

私が勉強について重要なインスピレーションを得た『脳を活かす勉強法』(茂木健一郎著、PHP研究所、2007)は、驚いたことに、カスタマーレビューでかなり悪く書かれている。たとえば、こんな感じだ。

「分かりきったことしか書いていません」
「実はこのようなハウツー本はいくらでもあるわけで、結局は未来にも残らないのである」
「もっと独自の楽しい勉強法が読めると期待していただけに、残念です」
「はっきりいってこの本を読んで新たに学習方法が分かるわけではない」
「ハウツーものとして見た場合、本書は実践的な記述が少ない」
「多くの勉強習慣のない人は、どうしたら集中して勉強できるかを知りたいはずです。この本は何も答えてくれません」
「あくまで『参考』程度に読むならよいかもしれません」
「体系立ってノウハウが書かれた本ではなく、筆者の実体験に基いた勉強の仕方エッセーですね」
「何度も読みたい、と思わせるような本ではありませんでした」

私にとってこの本の内容は、「分りきったこと」ではなかった。それに、不覚かもしれないけれど、新たに学習方法が分った。どうしたら集中できるかも知った。そして、自分にとっては革命的な進歩を経験した。参考程度にするにはもったいない本だ。私はこの本を枕元の本棚に置いて、何度も読んだ。その本にして、この低評価だ。

しかし、何よりも意外だったのは、野口氏の『「超」文章法』に対する酷評だ。この本には本当にお世話になった。内容が役に立つだけでなく、 読んで面白い。密度も濃い。その本に、星を一つか二つしかつけていない人が、何人もいたのだ。そして、「安易な発想で作られた本」とか、「とても文章法を説いた本とは思えない」などと酷評されている。星三つで「少し足りないなあ」とか「筆者の自慢話が多く」云々というのならまだしも、星一つで酷評というのは事実と合わない。こういうものがたくさん混じっていたら、読者は良書に出会う機会を妨げられてしまう。

もしかしたら、長澤氏のマッチ棒のようなレビューは多いのではないか。ふと、そんな疑いがわいてきた。そこで、カスタマーレビューが本選びにどのくらい役に立つのか、調べてみることにした。方法としては、私が読んで、よいと思った本のレビューを見ながら、そのレビューがどのようにその本を読んでいるかを見てみた。

すると、人気のある本ほどレビューの平均的な質が落ちることが分った。『論文のレトリック』のように、読書に慣れていない人には近づきがたい本のレビューは、比較的に評価も高く、質も悪くない。その一方で、とても読みやすく、ベストセラーになった本のレビューには、著書を酷評するものが多く、あまり柄のよくないレビューが目立つ。中には著者を人身攻撃しているものまであった。質を落とすレビューの特徴を大雑把に分類すると、以下の通りだ。用例は主に『「超」文章法』のレビューから拾ってある。

1.具体性のない賞賛や罵倒
 たとえば、星五つにはしているけれど、「読みやすい上に役に立つ。これは一読の価値ありです」としか書いていないレビューがある。こういうレビューでは、それがどんな本なのか分らないので、買うか買わないかを決めるときの参考にならない。
 逆に、具体性のない罵倒もあった。そういうのは、誹謗中傷の類と捉えてもいいかもしれない。いずれにしても、内容が漠然としすぎていて、選書の参考にならない。

2.効果を見るのでなく、読後感による評価
 あるレビューは、さんざん批判しておきながら、最後に「そうは言っても、この手の本は実践してこそ本当の評価ができるので、断言はできない」と言って、自分がその本で提唱されている方法を試してもいないことを暴露している。そりゃだめだ。目的を考える必要がある。エンターテインメントを狙う本なのか、実用を狙う本なのか。文学作品に実用性を求めるのがフェアでないように、実用を狙う本にエンターテインメント性を求めるのはフェアではない。

3.ないものねだり(これが特に目に付く)
 『「超」文章法』では、図や表については扱わないと断っているにもかかわらず、「不満だったのは、図・表の使い方への言及が少ないという点です」という不満を述べているレビューがある。この本の70ページと71ページに図表があるために、つい期待してしまったのか。
 また、「表現がヤケに堅いのだが、良く考えてみれば、この本は『論説文』の手引き書なのであって、『商業ライティング』の本ではない。(中略)商業ライティングのターゲット層は、もっと手ごわい。3秒で読むのを辞めてしまう」云々と書いているレビューがあった。これは選書を誤っている。しくじって目的に合わない本を選んでしまったことが分ったなら、書評はしないことだ。商業ライティングのような特殊な作文は、その分野の本を探すべきではないだろうか。
 あるレビューでは、「某評論家が野口氏を評し、『一言でいえることを、一冊に膨らます技術に天才的に長けた人』とかなんとか揶揄してたと思うのですが、これを読むと、野口氏がこれを意図的にやってたことが分かります」と書いている。どんな本でも、何かを主張する本なら、一言でいえる必要がある。その点を突いて批判するのはいただけない。メッセージが拡散してしまって何が結局言いたいのか、一言でいえないような本を書けと、その評論家は言っていたのだろうか。たぶん意味を取り違えているのではないだろうか。
 ある読者は、「自分は理系なので、残念ですが文学文章を書く機会が少ないので、星4つとさせて頂きました」と書いている。読み間違いを兼ねた、ないものねだりのレビューだ。
 ちなみに、茂木健一郎氏の『脳を活かす勉強法』の書評にも、「もっと具体的な根拠を示した『脳科学的な』一冊を今後期待します」というものがあった。その本は、脳科学的な実験データをもとに書く必要のないものだ。
 この「ないものねだり」は、その本を実際に読むまではなかなか見分けられない。私たちが本を選ぶとき、いちばん間違って参考にしてしまいやすい記述だ。

4.内容とは関係のない評価
 野口氏の本のレビューにはないけれど、別の著者の本のレビューでは、「姑息な手段を使うようなトンスル脱税王の本なんてゴミです」とか、「氏は似非学者で、人間として問題がある」なんていう、本の内容と関係ない記述もあった。また、ある著者のレビューに、読んでないけど分るというようなことを書いて、星一つをつけた人がいたそうだ。そのレビューに著者自身が「読まないうちに星1つだと、著者としてはとってもこまるのですが」とコメントを書き込んで、一時話題になったことがあった。物議をかもしたレビューの現物は、すでに削除されてしまったようだ。
 著者の人格よりも、テキストの内容で評価してほしい。オスカー・ワイルドも、オー・ヘンリーも、一種の性犯罪や横領で収監されている。それにもかかわらず、彼らの作品には価値がある。文章は美しく、人生の機微を深く感じさせる。レビューではそういう点に集中してもらえればと思う。
 逆に言えば、どんなに人格がすばらしい人でも、その人の本がひどいものだったら、それを率直に書くべきだということだ。
 まあ、人とその作品とを分けて考えるのは難しいことだ。妻も、嫌いな友人の書いた本だからといって、私が持っていた日本語文法の教材を捨ててしまった。その本はけっこうよかったし、今は絶版になって手に入らないから、思い出すたびにもったいないと思う。

5.勝手な評価
 『「超」文章法』の対象読者については、あるレビューに「文章を書くための入門書にピッタリ」と書いてある一方で、別のレビューには「文章の上級者向けの本ですね」と書いてある。どちらかといえば、後者の方が近いと思うけれど、こんなふうに、相反するレビューがまかり通っている。
 この本の文章は、「非常に判り易い」、「一気に読み進められる」、「おもしろい」と評価されている。私もそれに同感だ。しかし、あるレビューでは「文章が読みづらい。表現が回りくどいのだ」と言っていた。どういう読み方をして、そんな風に読めるのだろうか。
 あるレビューでは、「文章の『化粧』の部分においては、ありきたりな記述が多い」と批判している。また、「5章6章のいわゆる『文章技術』で、まるで陳腐な文章技術を披露してしまっているのがイタイ」と批判している読者もいる。まあ、そうかもしれない。でも、いくら文章技術は陳腐だからといって、そういう部分を取り除いたら、ものすごくラディカルな構成になって、多くの読者を面食らわせる本になったかもしれない。批評どおりに本が出来上がった場合を想像してみると、その批評がどんなものかが見えてくる。
 その本の5章と6章は、構成上必要だと思うし、私はそれなりに興味深く読んだ。独断と独創が入り混じっていて、読んで楽しかった。何よりも、自分の言葉で書いているという点に好感を持てた。もし問題があるなら、どのように改善すべきかを書けば、この本を選ぼうかどうか迷っている人に、正確な情報を与えることができるだろう。(ちなみに、この俎上に載った章で扱われている日本国憲法の晦渋な文が、横に添えられている英語版では明晰な構造になっている のには驚いた。)

6.読み間違いと的外れな評価
 『「超」文章法』では、「メッセージが大事だ」という点を冒頭に持ってきて強調している点が、とても新しい。ところが、ある読者は「文章法としては(パソコンの文章法への影響以外は)特に新しいことがあるわけではなく、手堅い内容になっています」と書いている。このレビューは冒頭の部分を読み流している。そういう書評があるのだから、本当に要注意だ。
 先ほどの、「工学系の私には何の参考にもなりませんでした」と書いていたレビューや、マッチ棒にこだわった読者も、その本で何が語られているのかが読めなかった。
 文章というものの性質を間違えているのではないかと思うレビューもあった。そのレビューでは、「『どうでもいいことをもったいぶって、それなりに形式だけ整えて書く』という技術であり、まともなことを書きたい人にとっては、この手の本を読むのは時間の無駄である」と書いていた。形式なしにまともなことを書くというのは、奇妙な考えだ。
 どの分野でも、その分野の基本がある。文章に形式が必要だという点は、基本だ。それを攻撃してしまっては、身も蓋もない。

もっとも、私は決して『「超」文章法』を賛美し擁護しているわけではない。「実用レベルとして耐えうるものではありません」と酷評しているあるレビューは、それなりに理由があると認められる。野口氏はターゲットとする読者の水準を明記していなかったからだ。そのレビューでは、「文章の構造と階層をまったく意識できない方」とか「小さな単位の文章作成にすら失敗している方」に対する配慮がない、と批判をしていた。私にはとても実用的だったのだから、「ないものねだり」の疑いもある。とはいえ、いちおう理由のある批判ではあるだろう。

考えてみれば、「超~~法」というように名付けられている本は、入門者用ではないだろう。少なくとも入門してしばらく経った人の、迷いを解いてくれる本につける名前のはずだ。ある読者は「斉藤孝さんの『原稿用紙10枚を書く力』と一緒に読み進めたが、どちらかと言えば本書の位置付けは、斉藤さんの書籍と比べて具体的な叙述の方法論を問いているものとなるのだろうか」と言っていた。たしかにその通りで、齋藤孝氏の本のタイトルを見ても、それが文章を書くことに全く慣れていない人のための本だということが分る。最初から読者は違う。もっとも、それはタイトルから“察せられる”のであって、“わかる”わけではない。だからこそ、「実用レベルとして耐えうるものではありません」という酷評を、納得いかないまでも、一理あると見ているのだ。

それに、私自身、著者にすべて同調しながら読んでいるわけではない。第6章で文章を勝手に直す編集者に対して毒づいている部分には、今回読み直して面食らった。以前読んだときは、まだピンとこなかったのだ。けれども、今ではその気持ちが痛いほど分かる。だから、その毒気がビシビシ伝わってきた。私だったらこんな強烈は書き方はしたくない。こんなことで、読者に不快な思いをさせたくないからだ。それに、野口氏は日本語が非論理的だと述べているけれど、決してそんなことはない。現に、野口氏の日本語はとても論理的だ。英文が論理的なのは、英米人は論理的な作文に対する強い欲求があるからだろう。文の構造が不明瞭な日本の法律文だって、法律家たちが望みさえするならば、まともな日本語で表現できるはずだ。まあ、私は本書から大いに利益を得ているので、この程度の毒気や決め付けは愛嬌だと思っている。得たものがたくさんあるのに、同調できない部分があるからといって評価を下げるなんて、身勝手な態度だ。所々にある気に入らない点は、読み流すのが礼儀ではないだろうか。

一方、アマゾンのカスタマーレビューの信頼性について書かれているブログなども読んでみると、別の問題があるらしいことがわかった。

まず、やらせレビューの可能性が指摘されていた。たとえば、あるブログでは、ある本の評価について、「185件のカスタマーレビューのうち164件が星5つ、とは普通には考えられません」と指摘していた。その記事は、「このカスタマーレビューは信用できるでしょうか?」と訝っている。

さらに、否定的な評価をしたら削除されたという報告もあった。

ある人は、アマゾンで買ったTOEICの参考書が、あまり役に立たなかったので、カスタマーレビューに星一つで投稿した。ところが、しばらくすると自分のレビューが削除されていた。そこで、ソフトな表現に直して再び投稿した。けれども、数日するとまた削除されていた。この本では、他の人から星二つがつけられていたのが、それも消されていた。他の本では、低評価をつけたものもすべて残っているのに、これはどうしたことか、と述べている。

またある人は、ある本の販売ページに唯一書き込まれたカスタマーレビューが星五つをつけていて、そこにたくさんの人が「このレビューが参考になった」と投票していたので、信じて買ったという。ところが、腰が抜けるほど期待はずれだったので、本の内容と、どこがダメなのかを率直に書いて、低評価のレビューを投稿したそうだ。すると、数日のうちに「15人中、0人の方が、『このレビューが参考になった』と投票しています」というレッテルがつき、それからしばらくして、その人のレビューは削除されてしまったそうだ。その人は、「大絶賛されていて5つ星評価&『参考になった』がたくさんついているレビューがそのまま買うに値する本であるかというと、そうではないと思っていた方がいいです」と結論付けている。

以上はアマゾンでの例だけれど、他の書店サイトでも、似たようなことが起こっているのかもしれない。ということは、読者のレビューには要注意だということだ。どのレビューの質が高いのか、その本を実際に読んでみなければ分らない。ほめていたり、批判していたりする内容が、当を得ているのかどうか、レビューだけを比較しても、なかなか判断できない。たしかに質のいいレビューも多いので、それらが質の低いレビューや、意図的に操作されたレビューに埋もれてしまうのは、惜しいことだ。
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by ijustat | 2012-01-29 18:28 | Books