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『師道』

昨日『師道』(小原国芳著、玉川大学出版部)を読み終わった。自分は今まで“教師”であることの意味を考えたこともなかった。これまでは時間講師として日本語会話を教えるだけだったから、教師の意味を考える必要もなかったと言えるかもしれない。

しかし、今年から職場が変わり、契約職のようになって、正式採用とパートとの中間的な位置になったため、教師としての意味を考えざるを得なくなった。この本は、その後歴史から消えてしまい、今では手に入りにくくなっているようだ。文章はうまくないけれど、内容はすばらしかった。自分の師となる本だ。

ちなみにこの本、뿌리서점で2千ウォン(約2百円)で買ったけれど、古本屋のサイトで見たら、1,200円もした。
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by ijustat | 2005-07-28 16:08 | Books

"Old Sophie," she added, ...

“Howl's Moving Castle”を45ページまで読んだ。試しに『熟語本位英和中辞典』を引きながら読んでみると、結構読みやすかった。一つ、訳語が古すぎてか、訳語に当てられている日本語が理解できないのがあった。しかし、大体において使いやすい辞書だと思った。齋藤秀三郎は、50年以上後に書かれる英文の語彙をもほぼ正確に予測できている。そのため、この古い辞書を用いても理解に困らない。すごいことだ。
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by ijustat | 2005-07-28 13:53 | English

はじめに理屈ありき!

高校生の頃、日本語は論理的でないということを学校の図書館から借りてきた本で読んだ。学校の先生も、日本語は論理的でないと言っていたような気がする。日本語に関して言及された文では、たいてい日本語は論理的でないと書かれていた。

私はそれを真に受けた。というより、父の口から発する非論理的な言葉の数々を見て、日本語が論理的でないことに納得してしまったのだった。それは本当に不幸なことだった。少なくとも父が論理的にまともな話し方をしていれば、私は日本語が論理的でないというでたらめを信じることはなかったはずだ。

日本語を教えながら、上級の学習者に文章の読解を教えていると、文章の達人たちがいかに繊細な論理を巧みに操っているかが分かり、驚くばかりだ。文の構造とそれぞれの語の意味を巧妙に組み合わせて、全く無駄なく、しかも複線を敷いて、うねらせながら、読者を引き込んでいく。その構造を分析して“非論理的だ”と言えるわけがない。日本語は驚くばかりに論理的な言語なのだ。

今回日本に戻って父と話していたら、漢字をあまり知らない中学生の上の子に、文通によって日本語を鍛えてあげると言った。しかし、私は父の文章は嫌いなのだ。いろいろ豊富に単語を持ってきては使うけれど、結論として何が言いたいのか分からないこともあるし、分かったとしても、思索が浅くて読むに堪えない。そんな空虚なものを孫に読ませて何の教育をするというのだろう。

それで、文通なんかするよりは、街に出て漢字を教えると言ったら、論ずるより実践あるのみと言う。どこまでも文通を正当化させるつもりらしい。またかと思った。父は、自分では理屈っぽく自分の意見を言うくせに、言い返されると、理屈を言うなという。父は「理屈」を「屁理屈」とほぼ同義に使っている。

しかし、この世界は理屈によって出来上がり、理屈によって動いている。ヨハネの福音書の冒頭にも、「初めに理屈があった」と書いてある。え、そんな馬鹿な、“ことば”とは書いてあるけれど、“理屈”だなんて書いてない! と言われるかもしれないけれど、原語では“Εν αρχή ην ο λόγος,”と書かれていて、この“λόγος(ロゴス)”は単に“ことば”以上の広い意味を持っている。

昨夜買った『師道』(小原国芳著、玉川大学出版部)を読み始めたら、こんな言葉に出くわした。

「バイブルのヨハネ伝第一章の第一節にあるように「はじめに言(ことば)ありき。言は神と共にありき。言は神なり」とありますが、英語の聖書にも、In the beginning was the word. とあります。ドイツ語の聖書にも Im Anfang war das Wort. とあります。
 ところが、中国語訳の聖書には「元始有道」とあります。原本のギリシャ語の聖書にはロゴス(logos)とあります。ロゴスという言葉の中には「ことば」という意味もある外に、更に宇宙の大道、大法、理法、理性という高く深い意味があります。」(p.7)

この著者の言いたいことは、それを受けて「実に、武士道、騎士道、柔道、剣道、弓道、茶道、華道、書道、角力道と、道でありたいのです」(p.8)と言っているように、別のところにあるのだけれど、これが面白いと思ったのは、多くの知識人が「はじめにことばありき」という一句を引用する時、文字通り日本語の「ことば」かせいぜい英訳聖書の“Word”を見ながら云々しているだけなのに対し(“豆単”の序文もそうだったけれど)、原語の「ロゴス」にまで遡って考えている点だった。この句が述べている意味の深さは、日本語や英語に訳されたものでは感じることすらできない。

中国語の「道」という訳語はなかなか奥妙だ。これは「みち」から「言う」まで、幅広い意味を持っている。「元始有道」という句は、「道可道、非常道(口で説明できる理屈というのは、不変の理屈になりえない)」という『老子』の冒頭の句を連想させる。「道」は「ロゴス」によく似ている。老子は、この冒頭の一句からも分かるように、言葉で言い表されたロゴスを信用しなかったけれど、ロゴスは人が口で説明できようができまいが、もとから存在するものだ。

理屈(=ロゴス)によって世界は動いている。それを私たちは実践だけで見つけることも難しいし、闇雲に実践したとしても、それが理屈に合っていなければ、不毛な努力を続けるばかりだ。理屈は空論ではない。理屈を見つけるために、多く学び、多く経験し、更に考察を加えることを、「実践」と対比させてしまうのは、実践そのものの足場をも否定してしまう態度だ。

そういうことが平気でできる人の日本語は、当然「非論理的」といえるだろう。そういう人たちは、理屈として成り立たない非論理的な自分の言葉を「日本語らしい」と思い、誇りを持つかもしれない。しかし、彼らは日本語を豊かにすることに貢献はできないだろう。日本語は論理的だし、生産的だ。日本語で書かれた名作は、論理的な日本語で書かれている。それが明瞭(または露骨)に表れていないだけだ。

「初めに理屈があった。この理屈は世界の創造者と一緒にいた。そしてこの理屈こそ、創造者なのだった。」だから、理屈を求めることは、大切な態度だ。そして、日本語は論理的な言語だ。日本語を用いて、人々の経験や身の回りの自然から、その背後に存在する理屈を見つけ出すことは、可能なことだ。そしてこれは、実に日本的な態度だ。なぜなら人間は生まれながらにして「統語能力」という論理的に言語記号を操る能力を備えているし、日本人もその例外ではないからだ。その言語能力の上に日本語は立っている。その日本語は、理屈を通して神に繋がっている。

最近になって、“日本語非論理”論に反論を唱える声が強くなってきたようだ。統語論も意味論も、日本語の論理性を証明するばかりだった。それによって、知識人たちが唱えていた日本語の非論理性がどれだけ杜撰な論であったかが明らかになった。いや、論理的におかしな表現というのは、いつの世でもどの言語でも生じるものだけれど、その特徴は、多くの人たちが“変だ”と感じ、次第に使われなくなることが多いという点だ。その点では、どの言語でも非論理性を含んでいるといえる。それにもかかわらず、まだ日本語が他の言語に比べて非論理的だと信じている人は多いだろう。それだけ、俗信というのはしぶとく生き延びる。しかし、日本語は論理的な言語だ。だから、誰でも自信を持って、日本語で理屈を追求していった方がいい。
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by ijustat | 2005-07-25 12:52 | Japanese

英語の難しさ

“Howl's Moving Castle”を読み始めて思うのは、英語には群動詞が多く、それが熟語として登録されている時もあるけれど、そうでないときもあるということだ。

動詞と、前置詞かまたはそれが副詞化したものとが結合する形は、日本語話者には馴染みが薄い。英語では、動詞の意味と前置詞/副詞の意味との結合によって、多様な表現を作り出していくようだろうけれど、“Howl's Moving Castle”を読みながら辞書で調べたものはほとんど載っていなかった。“POD”はもともと熟語には弱いようだけれど、『熟語本位英和中辞典』にもないものがほとんどだ。

でも、これが理解できないと、英語の文中を流れる論理的筋道がはっきり分からなくなってしまう。あとで、前置詞の意味を勉強しなおさなければいけないかもしれない。
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by ijustat | 2005-07-25 11:52 | English

“Howl's Moving Castle”

昨日“The Alchemist”を読み終わったので、今度は“Howl's Moving Castle”を読むことにした。大学生の頃から新書派だった自分にとって、英語もそのような本がいいのではと思っていたけれど、あまり難しくない小説を読むのが英語の学習としては楽だということが分かったので、今度はファンタジー小説を読むことにした。

ただ、読み始めて分かったのは、“The Alchemist”は翻訳だからか表現が平易で、癖のある難しい構文がほとんどなかったのに対し、オリジナルの“Howl's Moving Castle”は、子供向けの話であるにもかかわらず、分かりにくい文型がちょこちょこと出てくることだ。ということは、“The Alchemist”も原文のポルトガル語では難しいのかもしれない。

冒頭の部分で次の表現が難しい。

“She was not even the child of a poor woodcutter, which might have given her some chance of success.”(p.9)…“which”が“She”を指しているのか“the child”を指しているのか迷う。文脈上“the child”だとは思うけれど。

“Her parents were well to do and kept a ladies' hat shop in the prosperous town of Market Chipping.”(p.9)…“be well to do”は“よくしてくれた”という意味のようだけれど、どうやって調べてみたらいいのか分からないし、熟語集などを見ても見つからなかった。

“Lettie was by no means resigned to being the one who, next to Sophie, was bound to be the least successful.”(p.10)…成功者になりたくなかったと言っているように読んでしまうのだけれど、まさかそんな意味だとは思えない。

To which Martha always retorted that she would end up disgustingly rich without having to marry anybody.”(p.10)…“to which”にはお手上げ。この関係代名詞はどこに繋がっているのだろうか。

As time went on, whe made clothes for her sisters too.”(p.10)…“時が流れていくとき”というのは、“長い間には”のような意味か。

こんな調子だから、自分の英語学習は前途多難だ。韓国語の学習でもそんな時があったのかもしれないけれど、発想が日本語と似ているので、こんなに苦労はしなかったように思う。そういえば、今日礼拝の説教で 유안진 の『지란지교를 꿈꾸며』を引用していたけれど、今は耳で聞いてそのまま理解できる短いエッセイを、韓国語の勉強を始めて2、3年目くらいの時には辞書を引きまくって丸一日かけて読んだ。それでも理解できなくて、韓国人の留学生にどういう意味か聞いた。あの時の苦労に比べたら、今の“Howl's Moving Castle”の方がずっと楽なのだろうけれど、それでも英語というのは私たちから遠く離れた言語だ。分からない部分には、韓国語では感じなかった高く厚い壁を感じる。

ところで、何ヶ月か前に“뿌리서점”という古本屋を見つけてから、時々行っては古本を買っているけれど、今日も礼拝が終わってからその足で“뿌리서점”まで本を物色しに行った。

その一つの理由は、昨日の日記で“Randam House English Dictionary”と書いた辞書の正しい名前を確かめようと思ったからだけれども、日本へ行く前にずっとあったその辞書が、今日見たときにはなくなっていた。古本というのはこういうことがよくある。買うか買うまいか何日も迷った挙句、買う決心をして行くと、誰かに買われてしまっていたり、棚が整理されてなくなっていたりする。すでにそうやって手に入れそこねた本が何冊もある。まあ、今日は本を買うつもりで行ったのではないけれど、それでも日本の本を2冊買ってきた。

夜、“Howl's Moving Castle”を、難しいと思った表現をノートにメモしながら読んだ。18ページまで読んで寝た。今夜もとても暑いので、扇風機をかけたまま寝た。扇風機は身体に悪いと言うけれど、顔にさえ風がかからなければ快適に寝られる。
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by ijustat | 2005-07-25 00:19 | English

スリムな“POD”

昨日は昼間自転車でダイエーの鶴ヶ島店へ行った。前回来たのがいつだったか忘れたけれど、店内の様子がだいぶ変わっていたので驚いた。なんとなく華やかだった雰囲気がどことなく薄れ、大雑把な雰囲気になっていた。何よりも驚いたのは、3階の書籍コーナーや文具コーナーがあった辺りにブックオフが入っていたことだった。ダイエーに古本屋が入るなら、空港内の商店街に古本屋が入ったっておかしくないと思った。

ブックオフでは、“The Pocket Oxford Dictionary”の第8版で、とても薄い革装版が売られていた。2,350円もするけれど、定価は4,500円もする。これはチャンスかもしれないと思って、意を決して買った。実は同じ版の辞書を持っているのだけれど、紙が厚いのか、厚さが5.7センチもあり、携帯に不便だった。しかし、引きやすく読みやすかったので、家では使っていたのだった。それがここに売られている革装版は、厚さが2.8ミリしかなく、とてもスリムだ。革装なので手にしっくりなじむし、ページのめくり具合もいい。

それを買って帰り、“The Alchemist”を読みながら使ってみると、“Random House English Dictionary”よりも読みやすかった。日本の家では、机の上に置いてあったその辞書を使っていたのだけれど、語釈のうち特に難しい単語に限ってか、堂々巡りをしていることが多くて、使いにくさを感じていたのだった。

同じ単語を“POD”で試してみたら、うまい具合に堂々巡りの連鎖が続かないようになっていた。それに、もともと持っていた“POD”と違って、机の上で開いたまま使える。韓国で買って使っていた分厚い“POD”は、手を離すと閉じてしまうので、文字通り“辞書を片手に”読まなければならなかった。手を離してもページが閉じないというのは、辞書を選ぶときの条件になるくらい重要なことだ。

他にも、開拓社の『オックスフォード現代英英辞典』があった。これは高校生の頃買って使っていたけれど、実は半分くらいしか理解できなかった。それでも頑固に使っていたけれど、それが英語学習の足を引っ張ったことは確かだ。しかし、今その辞書を手に取ってページをめくると、初めてその辞書に出会ったときの喜びが甦ってくる。驚いたことに、音声記号に長音符号が付いていない。母音を長短よりも音価として捉えるというかなり斬新な方法を取っていたのだった。実際英語の長母音と短母音は長さで区別できないことが多いから、これは正しい方法なのだけれど、長母音の方が短母音より長くなりやすいから、そこまでラディカルに長音符号を省いてしまうのは思い切りすぎているように思える。実際、その後の版ではこの辞書は長音符号をまた入れるようになった。で、自分が使っていたものもこれと同じだったろうか。今は段ボール箱に詰め込まれて物置の奥にあるので取り出すこともできずにいるから確認もできない。

洋服ダンスばかりある部屋から旺文社の『英語基本単語集』(赤尾好夫著)が出てきた。通称“豆単”と呼ばれているけれど、“豆辞書”といった体裁の本だ。昔はこれで単語を覚えようとするのが普通だった。自分にも、こんなものを読んで語彙が増やせると無邪気に信じていた時代があったのだ。もちろん、無邪気だったのは私だけでなく、多くの受験生がそうだったし、著者の故赤尾好夫氏こそ、最も無邪気だったといえるかもしれない。しかし、重要度別に配列してベストセラーになった、通称“でる単”と呼ばれている『試験に出る英単語』(森一郎著、青春出版社)も、内容は同じようなものだ。『豆単』は廃れたけれど、『でる単』は今も健在だ。受験には受からなくても、せめて英文が読めるくらいにはなりたいものだと思うのだけれど、こういうタイプの単語集が今も多くの人の英語学習を妨げているように思えてならない。まあ、受験生が知るべき単語をチェックするという点では役に立つのかもしれない。そういうことが必要なときもあるだろう。でも、こういう教材で語彙力を増強できると期待するのは、宝くじが当たるだろうと期待するようなものだ。

今日は、帰りの飛行機の中で“The Alchemist”を読み終わった。もともと英文を読むのが遅い上に、読んだり読まなかったりを繰り返したので、ずいぶん時間がかかってしまった。実はこれが自分が英文の内容を理解しながら通読した最初の本だった。もちろん教材として作られた読み物などは通読したことがあるけれど、教材でない本は初めてだ。そういう意味で、自分にとって記念すべき瞬間だった。で、これを読む時も、“POD”を片手に読んだ。狭い座席で辞書を左手に読むのは楽ではなかった。半分は発音を確かめながらだったけれど、時々発音の表記がない項目もあるのがちょっと困った。しかし、どうやらこれが自分にとって一番合う辞書になりかけているようだ。
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by ijustat | 2005-07-24 01:23 | English

ワイヤレスの怪

今週は日本に戻っていて、うちではインターネットができないはずなのだけれど、コンピュータを開いたら、無線LANがつながってしまった。
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by ijustat | 2005-07-21 12:56 | Life

Δωμάτιο

先日、ずいぶん前にインターネットで音楽ファイルと一緒に見つけた“Δωμάτιο”という曲の歌詞を、『現代ギリシア語辞典』を引きながら読んだ。

実はこの歌詞は、希英辞典を引きながら読んだとき、途中で難しすぎてわけがわからなくなり、4分の1まで読んだところで投げ出してしまっていた。それで長らく苦手意識を持っていたのだけれど、今回辞書の助けを借りながら、最後までいちおう理解しながら読むことができた。その間自分のギリシア語の実力が向上したとは思えない。辞書の威力の大きさをあらためて実感させられた。

日本で唯一という辞書を買うとき、その収録語彙が自分の読むテキストをどのくらいカバーできるのかが不安になるものだ。また、見出し語はあっても、自分が読むテキストに出てくる語の意味をどれだけカバーできる語釈または訳語が載っているかも気になる。自分の学習はその辞書に左右されるからだ。

その点に関し、『現代ギリシア語辞典』は驚くほど出てくる単語の意味を言い当てていた。しかも、訳語をむやみに羅列することもないので、単語の意味もすっきりと頭に入ってくる。この点は、もしかしたら“Oxford Greek English Learner's Dictionary”よりも優れた特徴ではないかと思った。まあ、私は英語が得意ではないから、何ともいえないけれども、こうやって無作為に選んだテキストの語彙をここまで的確に予測していて、意味もその中でまかなえるということは、この辞書の著者が本当にギリシア語に堪能であることを裏付けている。

なお、“Δωμάτιο”は、歌詞の内容が象徴的で、結局はよく理解できなかった。“...και καλοκαίρια γαλανά, θάνατοι και φωτιές, και αόρατη ομορφιά.(そして青い夏、死と炎、目に見えない美)”なんて続くと、各語の意味はわかっても、そのメッセージにまで入っていくのは難しい。ただ、理解はできないのだけれど、その言葉は美しい。ある映画で、誰かが「詩とは感じるもんたい」と言っていた。理解しようとしないで、感じようとすべきなのかもしれない。
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by ijustat | 2005-07-13 20:02 | Greek

λογοκλοπή

『現代ギリシア語辞典』を買ったことを書いたら、著者の方が書き込みをしてくださった。本当に光栄なことだ。

感激の勢いで、私も著者の名前で検索をしてみると、このブログ以外に、私のホームページの、掲示板の控えが出てきた。それを見ると、ちょうど1年前に、この辞書が出ることを知り、欲しがっている。はっきり欲しいとは言っていないけれど、この辞書のことをあれこれ書いたり引用したりしているところを見ると、欲しがっているのだ。

それから他のところを見ると、希日の電子辞典を作るプロジェクトがあった。この作業にも著者は加わっておられたのかと思うと、そうではなかった。このプロジェクトは閉鎖されていたのである。『現代ギリシア語辞典』の内容を無断で使用した部分が指摘されたためだ。

日本の辞書の歴史は、もしかしたら“剽窃”の歴史であったと言ってもいいかもしれない。辞書ごとにあまり違いがないというのがそれを物語っている。ひどい場合は、編纂中の辞書の執筆者が他の辞書に原稿を流用した例もある。大野晋の『日本語と私』にも、『岩波古語辞典』を作る時に執筆者の一人が他の出版社の古語辞典の編纂にも加わっていて、その内容を一部流用していたことが、自分たちの辞書が出る前に分かったということを書いている。これはそのひどい例かもしれない。大野晋は、その執筆者に編纂作業から降りてもらったとだけ書いているけれど、損害賠償はなかったのだろうか。

千野栄一が『外国語上達法』(岩波新書、1986年)に「筆者がたまたま勤務している大学の言語学の時間に、どのような方法で新しい外国語-日本語辞典を作るかという質問をしたところ、一人として作品から語彙をひろうという発言がなかったのには全く驚いてしまった。すべての学生が『既存の辞書を集めて』と発言したのである」(p.139-140)と書いている。しかし、これは残念ながら日本の風土らしく、「多くの辞書が既成の外国語のある辞書――通称、タネ本――をもとにしている。それだからこそ、あれほど進んでいる英和辞典でも、しばしば全く同じ例文が異なった辞書に出てくるのである」(p.139)ということだ。(同じ内容を、『言語』の連載記事(1980年5月号 p. 104-6)ではもっと詳しく書いている。)

見出し語の選定にも問題があった。挫折した電子版希日辞典は、『現代ギリシア語辞典』の見出し語も使用していたという。見出し語にどの程度の著作権があるのかは分からないけれど、あからさまにほとんど同じ語彙を用いるならば、著作権侵害の謗りもまぬかれないだろう。

ただ、もし日本に現代ギリシア語の辞典がたくさん出ているという状況だったならば、電子版の希日辞典の運命もだいぶ違っていたことと思う。日本では、現代ギリシア語の学習者はとても少ない。そのため、希日辞典を買う人も、きわめて少ないのが現状だ。そのために、『現代ギリシア語辞典』には驚くほど高価な値段を付けざるをえない。そこへ、無料の電子辞書を公開することはいいかもしれないけれど、その唯一の辞書から流用した内容が含まれているとなれば、問題は穏やかではない。

ただし、電子版希日辞典を作るプロジェクトは、いいことだと思う。できれば、誤って流用してしまった部分を取り去り、もう一度、実際の用例を丹念に集めながら、その無償の作業を育てていってくれればと思う。

ちなみに、私は一人で作った辞書を3種類持っている。一つは大槻文彦の『言海』、もう一つは齋藤秀三郎(豊田實増補)の『熟語本位英和中辞典』、そして三つ目が、この川原拓雄の『現代ギリシア語辞典』だ。『言海』の「ことばのうみのおくがき」にもあるように、一人で辞書を作るというのは壮絶な作業だ。これは、『現代ギリシア語辞典』の「まえがき」にもかすかに仄めかされている。後発の辞書を作ろうとする人は、そのことを十分念頭においておくべきだ。
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by ijustat | 2005-07-08 17:36 | Greek

Maktub.

"The Alchemist"を75ページまで、ロングマンの辞書を引きながら読んだ。少年は十分にお金をためたので、クリスタル商をやめ、Al-Fayoum へと向かう隊商の一行に加わってピラミッドへの旅に立つ。そこで少年は、錬金術を研究しているイギリス人に出会い、旅を共にする。

固有名詞の発音は依然として謎だらけだ。Tangier は“タェンア”だということが分かったけれど、Tarifa と Al-Fayoum の英語読みはまだ分からない。

『イギリス英語日常会話表現集』は、231ページの“It's dangerous if you just leave them all over the floor.”という表現がすごく聞き取りにくい。その理由は、このセンテンスがとても早いし長いということと、“if”が /ik/ のように聞こえることによるようだ。

この部分だけ“Sound it!”で切り取って何十回も聞いたけれど、何度練習しても口がついていけないので、野口悠紀雄式に、80%原則に従うことにした。つまり、この部分の口真似をあきらめた。それでも、一応は聞き取れるようになったから、今年の英語学習の目標には到達したといえる。

“if”が /ik/ のように聞こえる理由は、多分グロッタルストップ(声門閉塞音)のせいかもしれない。
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by ijustat | 2005-07-04 19:02 | English