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現代ギリシア語辞典[第三版]

食事を済ませた午後8時半ごろ、携帯電話に音声メールが来た。聞いてみると、“안녕하세요? 여기 교...”とまで録音されていて、ブツッと音が切れていた。

しかし、直感的に、교보문고 に注文していた辞書が入ったのだと思った。そう思うと、いても立ってもいられなくなり、9時に閉店だというのに、大慌てで家を飛び出し、車に乗って 교보문고 まで行った。着いたときにはすでに閉店間際の音楽が店内に流れていた。

日本書籍コーナーへ行って、少し前に音声メッセージを受け取ったので来たと言うと、透明なビニールをかぶせてあるワゴンから、見たことのある青いケース入りの本を取り出してきた。『現代ギリシア語辞典』だ。

この本はとても高い(18,000円!)ので、ずいぶん長い間手も出せなかったのだけれど、今回思い切って買うことにし、今月の初めごろ注文した。今までずっと希英辞典を使っていた。たまに希希辞典を読むこともあった。しかし、私の持っている辞書は、とてもいい辞書ではあるのだけれど、語釈の英語が殺人的に難しかった。もっとも、分かりやすい単語も必ず含まれているのだけれど、半分が「こんな英単語もあるのか」と思うようなもので埋められているのだ。これは現代ギリシア語のテキストをたどたどしく読む者にとっては困難さを増加させるものだった。希希辞典は、知らない単語を引くには難しすぎる。知っている単語で辞書読解の練習をするのがせいぜいのところだ。それも、一つの単語の語釈を読むのに20~30分はかかる。

それで、ぜひ自分も希和辞典を持ちたいものだと願っていた。一方、現在韓国では韓国外大のギリシア・バルカン語科の 유재원 教授が希韓辞典を製作中という。その知らせを最初に聞いてから、교보문고 に行く度に辞書コーナーへ行っていたけれど、今年の始めに 유재원 教授にお会いする機会があって伺うと、今始まったばかりだということだった。ということは、完成するのは何年も先のことだろう。ギリシア・バルカン語科の学生に会う機会があったとき、辞書はどうしているのか聞いてみると、希英辞典を使っているという。彼らは英語が得意かもしれないけれど、それでも難しい英語でもっと難しいギリシア語を勉強するというのは本当に大変なことだと思う。

そういうわけで、自分のギリシア語学習を何とか容易にしたいものだと願っていたけれど、それにはどうしても、目の玉が飛び出すほど高い『現代ギリシア語辞典[第三版]』(川原拓雄著、リーベル出版)が必要だと思った。

今年の3月に日本へ一時帰国していたとき、川越の紀伊国屋書店に置いてあるこの本を一度見たことがある(神田の三省堂でも池袋のリブロでも見かけなかった)。辞書としては、装丁は洗練されていて美しいけれど、内容を見た感じでは、普通の辞書と比べて目立ったところはなかった。それに、語数も3万4千という小事典並みで、値段が1万8千円というすごさだ。手が出ないことはないにせよ、ギリシア語学習者をひるませるに十分な価格だ。ただし、説明は英和辞典並みに丁寧で、重要語には用例も載っていた。いくつかの単語を連鎖的に引いてみると、結構面白い知識も与えてくれた。それに――これが一番大事な点だけれど――日本語なので読みやすい。それで、その後この辞書のことがずっと心に残っていた。

辞書は、使い方によって、違った顔を見せる。ただ読むときに面白さを感じさせるか、テキストを読みながら知らない単語を引いたときにテキストの理解を助けるか、それは実際に使ってみないことには分からない。アマゾンでは好評というか好意的な評価を得ているところを見ると、テキストの読解を容易にしてくれているのではないかという期待がわいてくる。私にとって、外国語は読むことによって伸びるもので、辞書はその重要な案内者となる。辞書は引くだけのものではないと強調されるけれど、引くことの重要さは、他の何よりも際立って重要なもので、これが不便なら、辞書としての機能は著しく劣っているというべきだ。

私は、辞書は引くものであると同時に、可能な限り“希希辞典”によって正確な概念を得るべきだと考えている。しかし、今の私にとっては、希希辞典を普通に使用するというのは無謀な話なので、まずは希和辞典である程度ギリシア語のテキストに馴染んでから、希希辞典を使えるようにしたいと思う。このように、一生使うわけではないことが最初から決まっているものに胸が高鳴るというのは、自分でも不思議なことだ。

ただ、私にはアリストテレス神父さんからいただいた、 "ΜΕΙΖΟΝ ΕΛΛΗΝΙΚΟ ΛΕΞΙΚΟ" (ΤΕΓΟΠΟΥΛΟΣ ΦΥΤΡΑΚΗΣ 著、ΕΚΔΟΣΕΙΣ ΑΡΜΟΝΙΑ Α.Ε., 1997) があり、『現代ギリシア語辞典』は、それを使えるようにするための橋渡しとして、重要なものになる。希和辞典が手に入ることに胸が高鳴るのは、この少し先の希望が比較的容易に叶うステップができた喜びかもしれない。

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実際に“Η ΖΩΗ ΤΟΥ ΧΡΙΣΤΟΥ”という本を、『現代ギリシア語辞典』で知らない単語を引きながら読んでみた。この本のプロローグを読んだのだが、大きい活字で1ページばかりのテキストを、希英辞典で読んだときには途中から分けが分からなくなり、辞書の語釈の中から適切な意味を探すこともできなくなって、4~5行読んでやめてしまった。しかし、語釈が日本語だと、適切な意味を探しやすくなる。そのおかげで、いちおう終わりまで、大体の意味を理解しながら読むことができた。

まだ文法的にはっきり分からない部分もある。また、アクセントの位置が辞書や動詞活用表と違うところも2箇所あった。そのような部分の解決は、語学力の方で何とかすべきことだろう。

とにかく、これで現代ギリシア語の学習がかなり楽になったことは確かだ。あとは、辞書を引きながら少しずつギリシアの現代文を読んでいくことで、現代ギリシア語に慣れていくことができそうだ。
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by ijustat | 2005-06-30 22:34 | Greek

Don't forget the language of omens.

昨夜寝る前と今日午前中に、“The Alchemist”を19ページから34ページまで読んだ。この記述で自分がいかに英文を読む速度が遅いかが分かる。

少年は60匹の羊のうち54匹を友人に売り、6匹を“Melchizedek”と名乗る老人に与えたのち、Tarifa から船でアフリカへ渡り、Tangier のバーにいる。大急ぎでアフリカへ来てしまったが、考えてみればここではアラビア語しか通じないという事実に遅まきながら気がつくというところまでだ。

固有名詞の発音が難しい。 The Concise Oxford Dictionary には固有名詞がほとんど載っていない。それで Longman Pronunciation dictionary に頼ったけれど、Tarif とか Tangier といった地名の発音までは載っていない。

英英辞典にはだいぶ慣れては来たけれど、まだときどき語釈が理解できないことがある。 lizard の語釈は難しかった。“any reptile of the suborder Lacertilia, having usu. a long body and tail, four legs, movable eyelids, and a rough or scaly hide.”と書いてあり、トカゲのような爬虫類を指すようだけれど、 suborder, Lacertilia, eyelids, scaly, hide の5つの単語はよく分からなかったり、全然分からなかったりだ。

昼ごろ下の子を迎えに学校へ行き、そのあと近所の Freshness Burger で Salsa Burger を食べた。ちなみに salsa の発音は“サルサ”だけれど、アメリカでは“ソールサ”となるらしい。とても辛いハンバーガーで、汗をかきかき食べた。でも、病み付きになりそうな味だった。

そこで子供と食事をしたあとしばらく読書をした。下の子は漫画「名探偵コナン」を読み、私は例の“The Alchemist”を39ページまで読んだ。少年がアフリカの地でスペイン語を話す若者から財布ごと全財産を盗まれる場面までだ。3色ボールペンを持ってこなかったので、線を引きながら読めず、ちょっと不便に感じた。
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by ijustat | 2005-06-30 12:24 | English

The Alchemist

昨夜寝る前に“The Alchemist”を少し読んだ。もともと“The Purpose Driven Life”を読もうと思っていたけれど、この本は多少煽動的なところがあるので、寝る間際に目を爛々と輝かせてもいけない。“The Alchemist”は、以前韓国語版で読んだことがあり、おもしろかったので、これを読むことにした。

辞書は Pocket Oxford Dictionary of Current English を使わずに Collins COBUILD Learner's Dictionary を使った。寝る前なので、少し難しい語釈があったら困ると思ったからだ。しかし、コリンズの辞書は説明が長く、寝床で就寝前に腹ばいになって読んでいる読者にとっては、かえって読みにくい感じがした。それでも英和辞典を使うよりはいい。英和辞典では、概念の把握が難しいからだ。

そうやって、羊飼いの少年が自分の見た夢や羊らのことなどを考えながらある町へ行き、ジプシーの老婆に夢を解き明かしてもらったのち、素性の知れない老人に出会う所まで読んだ。

読んだページ数を見ると、9ページになっていた。ギリシア語の聖書なら1ページ読むのもやっとと思われる時間で、これだけ読めたわけだ。私は本を読む速度が人より遅く、英語なんかはさらに遅いのだけれど、それでもまあ何とか英語が使い物になりかけているようだ。うれしいことだ。
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by ijustat | 2005-06-29 13:09 | English

“The Little Prince”の謎

昨夜、“The Little Prince”の Chapter V を2度音読し、今朝も2度音読した。これはずいぶん前から時々暇つぶしにやっていたことで、これも考えてみれば自分の英語の勉強に数えることができる。

手元にあるのは階段の下に捨ててあったのを拾ってきたもので、裏表紙に“1995.5.31. 교보문고에서 미진.”との書き込みがある。テキストの表記はイギリス式で、“colour”とか“aeroplane”などとなっている。

この“The Little Prince”は洋書の中では大変なステディセラーで、今でも 교보문고 の洋書コーナーで平積みになっている。ただし、見てみるとどれもアメリカ式の表記だ。現在韓国ではアメリカ式英語を“世界の標準語”のように考え、イギリス式英語は避ける傾向にあるけれど、10年前はまだあまり頓着していなかったのかもしれない。

この翻訳は“Katherine Woods”という人によってなされたようで、アメリカ式表記のものも、テキストはまったく同じだ。表記だけを変えたらしい。私が持っている本は初版が1945年にイギリスの William Heinemann Ltd というところから出たと記されてている。アメリカ版はその表記を変えたものか、それとも最初にアメリカ版が出て、William Heinemann から出されるときにイギリス式表記に変えたのか。それは謎だ。

私はこの本を、思い出すたびに辞書で発音を丹念に確認しながら音読している。そして王子様のせりふを読むときに“very”が出てきたりすると、この“r”の発音を、ちょっと気取って日本語と同じ弾音で発音してみたりして、独りで悦に入ったりもしている。
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by ijustat | 2005-06-28 21:35 | English

Ειρήνη υμίν.

“Ευαγγέλιον το κατά Ιωάννην”を読み終えた。今日は仕事が午後からあって、午前中は休みだったので、その時間を利用してとにかく頑張って読み終えた。これで今月の目標の一つが完了した。

読みながら、今まで気づかなかった点をいくつか発見した。

まず一つは、弟子 Θωμάς(トマス)は Δίδυμος とも言われると書かれているが、δίδυμος というのはギリシア語で“双子”のことで、Θωμάς はアラム語で“双子”のことらしい。ということは、この弟子の名は「双子」なわけだけれど、いったい誰の双子なのか。自己紹介で、「わたしは双子です」といえば、双子の兄弟がいることになるけれど、そのもう一方はいったい誰か。

トマスは復活したイエス様が最初に現われたとき、その場に居合わせなかったために会えなかった。他の弟子たちが“Εωράκαμεν τον Κύριον.(我々は主に会った)”と言ったとき、“Εάν μη ίδω τον δάκτυλόν μου εις τον τύπον των ήλων, και βάλω τον δάκτυλόν μου εις τον τύπον των ήλων, και βάλω την χείρα μου εις την πλευράν αυτού, ου μη πιστεύσω.(もし私がその釘の痕を見ず、私の指をその釘の痕に入れず、また私の手を彼の脇に入れなければ、私は決して信じない)”と言い張ったけれど、それからふたたびイエス様が現われるのは、その直後だと思い込んでいた。

ところが、“Και μεθ' ημέρας οκτώ πάλιν(それからさらに8日目の後)”と書いてあった。トマスは他の弟子たちの言葉を信じないまま、それでも一緒に8日間も一緒に屋上の間にこもっていたわけだ。ここで「8日目の後」という変な日本語に訳してみたけれど、直訳すれば「8日後」だ。しかし、当時まだ西洋人はゼロという数を知らなかったので、本当は「8日目(つまり7日後)」だったのではないかと思う。これは聖書によって訳し方が分かれているところを見ると、解釈が難しいところらしい。

その後、弟子たちのうち7人がガリラヤ湖で漁をしていたが、夜通し網を下ろしても1匹も取れなかった。そこへキリストが現われるが、誰もそれを主だとは気が付かない。キリストは弟子たちに、“Παιδία, μη τι προσφάγιον έχετε;(子たちよ、何か食べる物はないのか;NIVでは Friends, haven't you any fish?)”と言われた。この“προσφάγιον”というのはパンに付けて食べる“付け合せ”のことで、婉曲に魚を意味する。キリストはまた、“Ενέγκατε από των οψαρίων ων επιάσατε νυν.(今獲った魚をもっておいで)”といわれたときの“οψάριον”も、パンと一緒に食べるおかずのことで、これもほとんど魚を意味する。このように、“魚”を意味するのに食べ物を表わす単語を用いるところが婉曲的だと思った。

ではもともと魚を表わす単語はといえば、そのすぐ後に“...το δίκτυον ..., μεστόν ιχθύων μεγάλων εκατόν πεντηκοντατριών(153匹の大きな魚で一杯になった網)”という文の“ιχθύς”が本来の“魚”だ。この“ΙΧΘΥΣ(=魚)”という符号は初代教会で、クリスチャンであることの暗号として用いられた。“Ιησούς Χριστός Θεού Υιός Σωτήρ(イエスキリスト神の御子救い主)”の略号だ。

現代ギリシア語で魚を表わす単語は、先程の“おかず”を意味する“ψάριον”が若干変形した“ψάρι”だ。日本語でも「さかな」はもともと“酒菜”、つまり酒の料理という意味から来ているというのはギリシア語と似ていて面白い。

またついでに言うと、“δίκτυον(網)”の頭に“δια-”を付けて“διαδίκτυο”というと、“インターネット”の意味になる。もし古典風に“διαδίκτυον”と書いたら、“インタアネツト”とでもいったところになるか。

というわけで、初めて原語の福音書を辞書を引きながら読み終えることができた。これは自分にとって一つの区切りになった。すばらしいことだ。
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by ijustat | 2005-06-28 20:58 | Greek

Διψώ

ここ何日か、インターネットの設定をいじってしまってつながらなくなり、このブログに書き込めなかった。連日ジメジメしていてけだるかったし、来客もあって、勉強らしい勉強は何一つできなかった。それに家の中はいつもうるさくて、気が散ってばかりだ。

そんなわけで、土曜日に“Ευαγγέλιον το κατά Ιωάννην”の19章を読み終わったあと、まったく読み進める余裕がなかった。この章は、キリストが十字架に付けられて息を引き取られる場面だ。他の福音書に比べて、簡単に書かれている。ただし、日暮れ前に息を引き取られたキリストを、ο Ιωσήφ ο από Αριμαθαίας(アリマタヤのヨセフ)とΝικόδημος(ニコデモ)とが丁重に葬る場面は、他の福音書にない独特な部分だ。

キリストは息を引き取られるとき、すべてが完了したのをご覧になって“Διψώ.(のどが渇いた)”と言われた。この言葉は日本語訳の聖書では、「わたしは渇く」と訳されている。日本語として意味を成していないような気がするけれども、このように訳すべき神学的理由があるのだろう。一般の読者としては、「わたしは渇く」と言ったら、むしろ“Διψήσω.(I'll be thirsty.)”の意味に取ってしまいそうだ。
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by ijustat | 2005-06-27 21:35 | Greek

「~ようにする」

電卓を叩きながら成績処理の計算をしていると、ある出版社から電話があった。日本語学習誌の記事で、疑問に思うところがあるという。私の原稿がおかしいのかと思ったら、他の人のものだった。

ある原稿に「~ようにする」という表現文型があり、「努力」と「習慣」の二つの意味があると書いてあったが、「習慣」の意味の例文に「毎日運動するようにしました」とあって、「努力」の意味と区別がはっきりしないということだった。確かに、習慣の意味はその例文では「毎日」が担当している。そして「しました」は努力を決意したことを表わしている。文型自体では努力の意味と区別する方法がない。

「저자분과 상의하셨어요?」と聞くと、「그 저자분이 무서운 분이에요.」という。それで、ヤフーで用例を検索しながら一緒に考えた。私の直感では、意味が二つあるのではなく、あくまでもこの文型は「努力」の意味が中心で、用例によっては習慣の意味を含みもする。だから、説明をそう変えた方がいいと指摘した。そして例文も、「運動するようにしました」ではなく、「運動するようにしています」とした方が、習慣の意味を表わしている感じを与えると話した。

そうしたら、「어떻게 해석하면 좋을까요?」と言われた。これは難しい。なぜなら、「~ようにする」は「~하도록 하다」だけれども、「~するようにしている」を「~하도록 하고 있다」と言ったら意味をなさないからだ。これは私よりも編集者の方が得意なはずだ。しかし、これも一緒に考えてみた。いくつか考えたけれど、「운동하는 것을 습관으로 하고 있습니다.」がいちばんいいように思われた。こうすれば、著者の言う“習慣”の意味にぴったり合う。ただ、これでどんな文脈でも自然な韓国語になるという保障はない。これを参考に、編集の人がいい韓国語を見つけるだろう。

電話を切ってから『日本語文型辞典』(くろしお出版)を見ると、「努力」の意味だけが指摘されていて、その用例の中に、“習慣”の意味と指摘されていた類の例文も含まれていた。もちろんこの辞書では“習慣”の意味は指摘していない。私もやっぱりこの辞書の説明が妥当だと思った。

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成績評価表の入力を3時半に終えた。大変な作業だったけれど、何とか終えることができてよかった。来週月曜日から水曜日まで、成績評価異議申請期間で、そのときどうするかと 조교 に電話で聞かれたので、個別面談すると答えた。

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"운동하는 것을 습관으로 하고 있습니다"라는 표현은 좀 어색하다고 들었다. '습관으로'를 '습관같이'라고 하면 자연스러워진다고 한다. 하긴 부사적인 용법으로 '습관으로'라는 표현은 들어본 적이 없다. 왜 내가 그때 그런 표현을 생각했을까? 보통 어디서 보거나 들은 적이 있는 표현이 아니면 쓰지 않는데 말이다.
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by ijustat | 2005-06-24 11:37 | Japanese

採点

今日は、午前から午後まで用事があって外出したあと、学校の事務室へ行って期末テストの採点をした。

4時半ごろ事務室に着くと、誰もいなくて鍵がかかっていた。警備室へ行って鍵をもらった。「일본어과 사무실의 키 주세요.」というと、「학생이에요?」という。「아뇨, 교수예요.」と答えたけれど、何となく口幅ったかった。鍵をもらって事務室に行き、扉を開けると、もうみんな帰宅したというのに、クーラーがかかっていて涼しかった。家だと暑くて仕事にならないから事務室に来たので、ちょうどよかった。

コンピュータを出して採点作業を始めるとすぐに、土方姿の見知らぬ男が入ってきた。「어떻게 오셨어요?」と尋ねると、戸惑いの色を見せて口をもごもごさせた。それで今度は「무슨 일로 오셨는데요?」と言うと、「에, 에어컨 떼러 왔는데요.」という。そういえばさっき、事務室の前の廊下に台車があって、そこにクーラーが積んであった。夏休みに入って構内の工事を始めたのだ。しかし、今日ここに来た目的がクーラーだから、いま持って行かれたら困る。それで、「내일 해 주시면 안 될까요?」とゴネてみた。すると、しばらく困ったような顔をして考えた挙句、「네, 내일 하죠.」と言って出て行った。

今学期は中間テストも期末テストもインタビューをした。それはいいとして、その採点が半端ではなかった。一人1分程度の録音を聞いて採点するのに5分も6分もかかる。それが126人。中間テストでは発音も念入りにチェックしたけれど、期末テストの採点では時間が足りそうもなかったので、流暢さと正確さを中心にチェックした。すると、平均点が8点ぐらい高くなってしまった。これは困った。

8時ごろ作業を休んで学校の外へ出、近くの 김밥 屋で 치즈김밥 と 참치김밥 を買った。この店はある異端の宗教が経営しているといううわさがあって、そういう所の資金源調達に加担してしまうのは良心が咎めたけれど、この近所で手ごろな軽食を買えるのはここしかない。店に入って注文し、店員が 김밥 を作っている間、ふと壁を見ると、냉면 の写真と一緒に“세숫대야 냉면”と印刷された横断幕がかけられていた。ずいぶんえげつない名前だと思った。「세숫대야 냉면이라니, 이름이 좀 그러네요.」と言うと、店員は同意するともしないとも取れない曖昧な笑いを漏らした。

10時まで作業をした。まだ20人くらいの分が残っていたけれど、仕事を切り上げて家に帰った。帰りに 뿌리서점 に寄り、古本を物色してストレス解消をした。洋書の棚の前に COD 第4版のもっときれいなのがあるのを見つけた。値段は同じだ。今持っているのを売ってそれを買おうか。

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その後採点は午前2時に終了。成績処理は午後5時まで。さあ、これからひと寝入りだ。
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by ijustat | 2005-06-23 23:53 | Japanese

The Concise Oxford Dictionary

英語学習日記をこのブログで始めようと思ってから、ちっとも英語を勉強する余裕がない。しかし、昨日 뿌리서점 で“The Concise Oxford Dictionary”(略して COD)の第8版(1990年刊)を買ったのは、英語学習の一場面と言えるかもしれない。この辞書は、数日前 뿌리서점 に置かれているのを見た。最初は買う気がなかったのだけれど、思うところがあって、職場からの帰りに立ち寄って買った。8千ウォンだった。

べつに辞書のコレクションをしているわけではないのだけれど、実は同じ 뿌리서점 でちょうど1ヶ月前にも COD の第4版(1951年刊)を買った。これは5千ウォンだった。第4版と8版のあまりの変貌振りにただ驚くばかりだ。

で、なぜそれを買う気になったのかといえば、最新の COD ではよほど読みが特殊な単語でないと発音記号を表示しなくなったので、英語学習者に対して不親切になったと感じていたのだが、第8版では丁寧に全ての見出し語に表示されていたので、そこに親しみを感じたのだ。

最新の COD については知らないけれど、4版と8版を比べてみると、まるで別の辞書のように違う。まず、4版では発音表記を綴り字の上に記号で表わしているのに対し、8版では普通の辞書と同じく発音記号を別途に表示している。これは両者の印象を刷新してしまった。また、4版では“現代語”の“現代的”用法に限っていると断りを入れている。しかし、8版ではそういう断りはなく、語釈を見ると、古典的用法には“arch”と表示してある。また、4版は連語的な用例が多く、その用例には意味の説明がついている。しかし、8版にはそれらの用例がない。用例とその説明は、4版の優れた点だと思うけれど、なぜ用例の提示をやめてしまったのだろうか。

また、語釈も8版では高尚な語彙の使用を控えているので、意味がさっぱり分からないということが格段に減った。4版には奇妙な説明の仕方をした語釈もある。“novel”という単語を見たら、1番目の意味に“One of the tales in such a collection as Boccaccio's Decameron.”というのがあった。「デカメロン」は世界史を勉強したとき書名だけは習ったけれど、読んだことがないので、どんな形式の物語なのか分からない。イギリスの読者には自明のことなのだろう。8版ではこの意味が消えて、2番目の説明が1番になり、手短に“a fictious prose story of book length.”と書かれている。これは4版では“Fictious prose narrative of sufficient length to fill one or more volumes portraying characters & actions representative of real life in continuous plot.”と長い。はっきりいって、デカメロンをこの2番目の意味から分離する理由もよく分からない(汗)。

一人で勉強することがほとんどなので、辞書は大切な道具だ。むしろ、時に先生であり、時に友であるといった方がいいかもしれない。またたまに、悪友であることもある。

一つの辞書を手垢が付いてボロボロになるまで使いまくる必要はないと思う。何冊か持っていて、場合に合わせて便利なものを使った方が便利だ。しかし、いちおう次の辞書を中心に使おうと思っている。

1.“The Concise Oxford Dictionary”、8版、1990年。
2.“The Pocket Oxford Dictionary of Current English”、8版の改訂版、1996年。
3.“Collins COBUILD Learner's Dictionary, Concise Edition”、1996年。
4.“Merriam Webster's Pocket Dictionary”、1995年。
5.“ラーナーズ・ブログレッシブ和英辞典”小学館、1997年。
6.“Longman Pronunciation Dictionary”、1990年。

1がいちばん手ごろで、たいていはこれを使っている。2は、それに載っていない単語を引くとき使おうと思う。3は、1と2の説明が難しかったり、明快な理解が得られないときに使う。4は携帯用。4だけアメリカの辞書だけれど、掌サイズに4万語が収録されていて、実際使ってみると、大抵の語は載っている。発音表記も全見出し語に付いている。語釈も難しくない。こういう優れた英英辞典は、ソウル市内の書店で見る限り、他にない。5は和英辞典。6は発音辞典。固有名詞は発音だけ分かれば用が足りることがほとんどだし、意味があまりはっきりしない語も、発音が分かると意味まで分かるときもある。また、辞書によって発音に違いがあったり、アメリカ英語と発音が著しく違っていたりするとき、それらの発音の使用状況を知ることができるので便利だ。

ちなみに、オックスフォードの辞書といえども恐れることなかれ。外国人向けに編纂されたホーンビーの英英辞典よりも、現在出ているオックスフォードの英英辞典の方が、語釈の英文がやさしいのだ。大体、最近出ている英英辞典は、どれも語釈が平易に書かれている。私のように英文が大して読めない人間でも英英辞典は使いこなしているのだから、英文を読んで仕事している人で英英辞典に苦手意識を持っているとしたら、それは問題だ。

上のリストに英和辞典がないけれども、“英和辞典”とか“韓日辞典”といった対訳辞典はなるべく使わない主義なのだ。まあ、初歩の段階で英英辞典というのは無茶な話だけれども、ある程度テキストが読んで理解できるようになったら、積極的にその言語のいわば“国語辞典”を使って、母語の桎梏から自由になるべきだと考えている。対訳辞典は単語ごとに日本語の影響を受け、その概念把握が正確にできるようになりにくい。また、語彙と語彙との関係もほとんど分かるようにならない。それに、説明の仕方にもよるだろうけれど、訳語がズラリと並んでいて、意味の明快な理解が得られないことが多い。そういう対訳辞典をもっぱら使っていて、なおかつ英英辞典に苦手意識を持ちながら、英語の意味が分かっているなんていうのは、ちょっと信用できない。

ところで、イギリス英語の教材ばかりを使って学習しているのは、イギリスが好きだからというわけではない。もともとイギリスにこれといった関心はないのだ。しかし、英語をやり直すとき、イギリス英語が日本語に似ているという言葉に載せられてイギリス英語(特にRP)で学習することに決めたため、私の英語学習はイギリス臭くなってしまった。まあ、こうやって大なり小なりイギリスに触れ始めてみると、イギリスに対する漠然とした興味は感じるようになってくる。ちなみに、イギリス英語の発音が日本語に近いというのはとんでもない話で、イギリス英語の発音は間違いなくアメリカ英語に近い!
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by ijustat | 2005-06-22 22:59 | English

Ουκ ειμί.

昨日はテストの採点に力を使い果たした(でもまだ終わらない!)。そして今日は、早朝に授業があり、それから家族で 안성 の教会墓地にある義父の墓へ草取りに行った。そして帰ってきたあと、疲れてしばらく眠ってしまった。

それでも“Ευαγγέλιον το κατά Ιωάννης”は暇を見ては読み続け、今日は18章を読み終わった。ここでは、キリスト逮捕後のさまざまな人間模様が簡潔に描かれている。特に印象的なのは、先日読んだイエス様の“Εγώ ειμι.(私だ)”と対照的な、ペトロの“Ουκ ειμί.(私は違う)”という言葉だ。

逮捕されたイエス様のことが心配だったらしく、ペトロはイエス様の連行された神殿までついて行った。そしてそこで焚き火に当たっていると、周りにいた人たちが、“Μη και συ εκ των μαθητων αυτού ει;(お前も彼の弟子たちの仲間か。)”と言うと、ペテロは“Ουκ ειμί.”と否認する。これはペテロの弱さとして説教されるけれども、その場の雰囲気を考える必要もあるだろう。

キリストはアンナスのところからカイアファのところへ回され、その後ピラトの官邸へ回される。ピラトはイエス様を尋問するけれども、ローマ法に照らしてみて何の罪状も見当たらないので釈放しようとするが、ユダヤ人たちが頑強に拒み、代わりにバラッバという盗賊を釈放する。

イエス様はピラトに対しても謎めいたことを言われる。“πας ο ων εκ της αληθείας ακούει μου της φωνής.(真理から生まれたものは皆私の声を聞く。)”それに対してピラトは“Τί εστιν αλήθεια;(真理とは何かね?)”と尋ねている。

語の意味は用例によって決定されるという原則に従って読めば、イエス様の言われた“αλήθεια(真理)”という言葉は、私たちが通常考える「真理」とは別物に違いない。しかし、多くの場合、この「真理」を通常の哲学や論理学などで用いる「真理」の概念に当てはめて考えて、キリストの言葉を評価している。それに対し、ピラトはイエス様の語られる“真理”の定義を求めている。これは聞き手として適切なポイントをつかんでいると感じた。人によっては、ピラトのこの態度を、福音の真理を知らない態度と批判していたけれど、その批判は不当だと思う。しかし、残念ながら、ピラトの問いに対する答えは記されていない。

というわけで、今日も英語の勉強も韓国語のブラッシュアップもできなかった。
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by ijustat | 2005-06-22 21:51 | Greek