カテゴリ:Greek( 14 )

残念な『ニューエクスプレス 現代ギリシア語』

火曜日(2012年2月7日)に白水社のサイトで、『ニューエクスプレス 現代ギリシア語』(木戸雅子著、2012年1月27日刊)が出たことを知った。以前の『エクスプレス 現代ギリシア語』をすっかりリニューアルした内容だ。

しかし、喜んだのも束の間。同サイトで公開されているたった4枚のサンプル画像の中に、編集上の間違いがいくつもあって、驚くと同時に、ちょっとがっかりした。

まず、18ページの本文。テキストには Αυτή είναι η βαλίτσα σου;(これがあなたの旅行カバンですか)と単数で出ているのに、挿絵にはカートに載った5つの旅行カバンと1つの手提げカバンが描かれている。ギリシア語では、一つと言っているのに、挿絵は複数だ。ちょっとひどいんじゃないか。たぶん著者は、この挿絵を見て憤然としたに違いない。

それから、同じく本文テキストの Γεια σου.(こんにちは)の下にあるカナ発音が、「ヤス」ではなく「ス」になっている。ちょっとした誤植だけれど、本文にあるので目立つ。

読みの間違いは、33ページの「表現力アップ」にもあった。そこでは、数字5の読みが、「ペンデ」でなく「ペンゼ」になっていた。πέντε というギリシア語が書かれていたら、間違えなかったのかもしれない。でも、そこには数字の「5」だけが書かれていたので、編集者が間違いに気づかなかったのだろう。

極めつけは、そのすぐ下にある2文だ。これはひどい。

「このメロンは甘いですか」に当たるギリシア語に、Πόσο κάνουν όλα αυτά;(全部でいくらですか)が当てられていた。そして、続く「全部でいくらですか」にあたるギシリア語が、Που είναι το φαρμακείο;(薬局はどこですか)になっていた。

ここまで間違いが多いと、何だか校正刷りを読んでいるみたいだ。

この教材は、見るとテキストの本文も実際的でいいし、語彙力アップや表現力アップで扱われている語彙や表現も、使ってみたいものばかりだ。きっと、続く内容も、魅力的に違いない。それにもかかわらず、こんなに間違いがたくさんある。これでは、この教材を手元に持っていたいという気が起こらない。

手元にある他のエクスプレスシリーズを見てみると、このシリーズは、どうやら誤植があっても再版時に直さないようだ。でも、これはちょっとひどすぎる。次に刷るときは、ぜひもう一度、誤植の修正をしてもらえればと思う。
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by ijustat | 2012-02-11 17:43 | Greek

Νεοελληνικά Βασικά Ρήματα

Πήρα ενενήντα τέσσερα ελληνικά ρήματα με κυριότερα μέρη της κλίσης για να τα θυμηθώ·

1.

01 ある είμαι, θα είμαι, ήμουν
02 ある υπάρχω, θα υπάρξω, υπήρξα
03 生きる ζω (-έω), θα ζήσω, έζησα
04 住む μένω, θα μείνω, έμεινα
05 立つ στέκομαι, θα σταθώ, στάθηκα
06 座る κάθομαι, θα κάθω, κάθισα
07 起きる σηκώνομαι, θα σηκωθώ, σηκώθηκα
08 横になる ξαπλώνομαι, θα ξαπλωθώ, ξαπλώθηκα
09 落ちる・倒れる πέπτω, θα πέσω, έπεσα
10 過ごす περνώ, θα περάσω, πέρασα
11 なる γίνομαι, θα γίνω, έγινα
12 生まれる γεννιέμαι, θα γεννηθώ, γεννήθηκα
13 育つ μεγαλώνω, θα μεγαλώσω, μεγάλωσα
14 死ぬ πεθαίνω, θα πεθάνω, πέθανα
2.

15 する κάνω, θα κάνω, έκανα
16 遊ぶ παίζω, θα παίξω, έπαιξα
17 助ける βοηθώ (-άω), θα βοηθήσω, βοήθησα
18 準備する ετοιμάζομαι, θα ετοιμαστώ, ετοιμάστηκα
19 始まる αρχίζω, θα αρχίσω, άρχισα
20 終わる τελειώνω, θα τελειώσω, τελείωσα
21 止まる σταματώ (-άω), θα σταματήσω, σταμάτησα
3.

22 行く πηγαίνω, θα πάω, πήγα
23 来る έρχομαι, θα έρθω, ήρθα
24 運ぶ φέρνω, θα φέρω, έφερα
25 出発する αναχωρώ (-έω), θα αναχωρήσω, αναχώρησα
26 発つ φεύγω, θα φύγω, έφυγα
27 到着する φτάνω, θα φτάσω, έφτασα
28 訪れる επισκέπτομαι, θα επισκεφτώ, επισκέφτηκα
29 戻る επιστρέφω, θα επιστρέψω, επέστρεψα
30 歩く περπατώ (-άω), περπατήσω, περπάτησα
31 走る τρέχω, τρέξω, έτρεξα
32 運転する οδηγώ (-έω), θα οδηγήσω, οδήγησα
33 案内する γυρίζω, θα γυρίσω, γύρισα
34 入る μπαίνω, θα μπω, μπήκα
35 出る βγαίνω, θα βγω, βγήκα
4.

36 教える διδάσκω, θα διδάξω, δίδαξα
37 学ぶ μαθαίνω, θα μάθω, έμαθα
38 勉強する・研究する σπουδάζω, θα σπουδάσω, σπούδασα
39 知る φέρω, θα ξέρω, ήξερα
40 忘れる ξεχνώ (-άω), θα ξεχάσω, ξέχασα
41 思い出す θυμάμαι, θα θυμηθώ, θμήθηκα
5.

42 信じる πιστεύω, θα πιστέψω, πίστεψα (πως...)
43 待つ περιμένω, θα περιμένω, περίμενα
44 期待する ελπίζω, θα ελπίσω, έλπισα (να...)
45 関心を持つ ενδιαφέρομαι, ενδιαφερθώ, ενδιαφέρθηκα (για...)
46 愛する αγαπώ (-άω), θα αγαπήσω, αγάπησα
47 気に入る (μου, σου...) αρέσει, θα αρέσει, άρεσε (να...)
48 より好む προτιμώ (-άω), θα προτιμήσω, προτίμησα
6.

49 喜ぶ χαίρομαι, θα χαρώ, χάρηκα (που...)
50 感謝する ευχαριστώ (-έω), θα ευχαριστήσω, ευχαρίστησα
51 悲しむ λυπάμαι, θα λυπηθώ, λυπήθηκα (που...)
52 恐れる φοβάμαι, θα φοβηθώ, φοβήθηκα
7.

53 眠る κοιμάμαι, θα κοιμηθώ, κοιμήθηκα
54 目覚める ξυπνώ (-άω), θα κυπνήσω, ξύπνησα
8.

55 言う λέω, θα πω, είπα
56 話す μιλώ (-άω), θα μιλήσω, μίλησα
57 書く γράφω, θα γράψω, έγραψα
58 読む διαβάζω, θα διαβάσω, διάβασα
59 問う ρωτώ (-άω), θα ρωτήσω, ρώτησα
60 答える απανδώ (-άω), θα απαντήσω, απάντησα (σε...)
61 説明する εξηγώ (-έω), θα εξηγήσω, εξήγησα
62 呼ぶ καλώ (-άω), θα καλέσω, κάλεσα
63 歌う τραγουδώ (-άω), θα τραγουδήσω, τραγούδησα
64 求める ζητώ (-άω), θα ζητήσω, ζήτησα
65 頼む παρακαλώ (-έω/-άω), θα παρακαλέσω, παρακάλεσα
9.

66 笑う γελώ (-άω), θα γελάσω, γέλασα
67 泣く κλαίω, θα κλάψω, έκλαψα
10.

68 見る βλέπω, θα δω, είδα
69 見つける βρίσκω, θα βρω, βρήκα
11.

70 聞く ακούω, θα ακούσω, άκουσα
12.

71 持つ έχω, θα έχω, είχα
72 取る παίρνω, θα πάρω, πήρα
73 受け取る λαβαίνω, θα λάβω, έλαβα
74 予約する κρατώ (-άω), θα κρατήσω, κράτησα
75 置く βάζω, θα βάλω, έβαλα
76 あげる・くれる δίνω, θα δώσω, έδωσα
13.

77 売る πουλώ (-άω), θα πουλήσω, πούλησα
78 買う αγοράζω, θα αγοράσω, αγόρασα
14.

79 食べる τρώω, θα φάω, έφαγα
80 飲む πίνω, θα πιώ, ήπια
15.

81 飢える πεινώ, (-άω), θα πεινάσω, πείνασα
82 渇く διψώ (-άω), θα διψάσω, δίψασα
16.

83 閉める κλείνω, θα κλείσω, έκλεισα
84 開ける ανοίγω, θα ανοίξω, άνοιξα
17.

85 点ける ανάβω, θα ανάψω, άναψα
86 消す σβήνω, θα σβήσω, έσβησα
18.

87 掃除する καθαρίζω, θα καθαρίσω, καθάρισα
19.

88 作る φτιάνω, θα φτιάξω, έφτιαξα
89 切る κόβω, θα κόψω, έκοψα
20.

90 思う νομίζω, θα νομίσω, νόμισα (πως...)
91 考える σκέπτομαι, θα σκεφτώ, σκέφτηκα (να...)
92 欲しい θέλω, θα θέλω, ήθελα (να...)
93 試みる προσπαθώ (-έω), θα προσπαθήσω, προσπάθησα (να...)
94 できる μπορώ, θα μπορέσω, μπόρεσα (να...)
Έφτιαξα αυτό τον κατάλογο για πρώτη φορά στη 13 Νοέμβριο 2009, και αυτός είναι ο αναθεωρημένος του.
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by ijustat | 2009-12-27 01:29 | Greek

動詞だけの復習(現代ギリシア語)

昨日、また애오개にある韓国正教会へ行って来た。장로교신학대학교(長老教神学大学校)の学生たちが성찬예배(聖体礼儀)に招かれ、そのついでに私も一緒に呼ばれたのだ。

c0019613_3155228.jpg韓国正教会の大主教を勤めておられる Αριστοτέλης(アリストテリス)神父さんは、エキュメニカル運動のメンバーで、おそらくその一環としてだと思うけれど、プロテスタント教会の神学者や神学生を招いて、正教会の礼拝を見学させたり、正教会の教理について講義をしたりしている。だから、正教会の人たちも、私のようなプロテスタント教会の信徒に対しても、屈託なく接してくれる。

前回の土曜日に神父さんに会ったときは、ギリシア語が口から出てこなくて大いに当惑した。まあ、ずっと怠けていたから悪いのだけれど。

そこで一念発起して、『現代ギリシア語の入門』(荒木英世著、白水社、1990)から動詞だけを抜き出し、そこからさらに、エッセンシャルだと思われる動詞88語を選んで、現在形と接続法とアオリストの過去形を覚えた。

日本語を見てギリシア語で言ってみたり、現在形を見て他の変化形を言ってみたり、手を動かして書いてみたり、その動詞で自分の知っている名詞と一緒に文を作ってみたりした。もたもたしているけれども、何とか言える。1週間で、ゼロから「初級の中」まで一気に上がった感じだ。

c0019613_3162841.jpgそして、いよいよ今日、正教会へ行った。午前9時から11時まで、2時間の礼拝が終わったあと、선교관(宣教館)地下のセミナー室で、正教会の礼拝についての講義を Αριστοτέλης 神父さんがされた。さすがにほとんど聞き取れないのは先週と同じだけれど、覚えた基本動詞は耳に入った。韓国語の通訳を聞いてメモを取った。

この教会には、神父さんと同じくギリシアから来た Αθανασία(アサナシア)さんというおばあさんがいる。英語が堪能で、とても優しくて親切な人だ。早速、“Το ευδομάδα, έμαθα ελληνικά ρήματα.(今週、ギリシア語の動詞を覚えました)”と言ってみた。すると、驚いて“Γιατί έμαθες ρήματα;(なんで動詞を覚えたの?)”と――たぶん、そう言ったのではないかと思う――聞くので、“Για να μιλήσω τα ελληνικά.(ギリシア語で話そうと思って)”と答えた。もちろん、すごくたどたどしいギリシア語でだ。

これは、実は5年以上前まで神父さんからギリシア語を習っていたときに比べると、大きな進歩だったのだ。当時は動詞の変化形をこんな風にして覚えてしまうような勉強方法は考えてもいなかったし、今よりずっと記憶力が悪かった。そのために、口頭では自力で文章を組み立てることがなかなかできなかったのだ。今回は、いわば自転車の補助輪をはずして乗るのに成功したようなものだ。

장로교신학대학교の学生たちが帰って行ったあと、神父さんに挨拶をして帰ろうとすると、一緒に食事をしていきなさいと言われた。それで、教会の聖歌隊の人たちと一緒に食事をご馳走になった。焼き鯖の定食で、韓国の庶民料理だけれど、日本風な感じがしてとても美味しかった。Αθανασία さんが“Μου αρέσει κορεάτικο φαγητό.(韓国の料理が好き)”と言った。私も、英語交じりではあったけれど、ギリシア語で簡単な話をした。

ところで、神父さんは2年ぐらい前から、教会の人たちにギリシア語のレッスンをしているそうだ。金曜日の夕方やっているということなので、私も加わりたいと言ったら、今学期はアメリカに行ったりして休んでいるけれど、また始める予定だから、そうしたら呼んであげると言われた。

神父さんのギリシア語のクラスに出ているという聖歌隊員に、どの辺まで進んでいるんですかと尋ねると、会話教材で勉強しているのだけれど、2年間やって5課まで進んだとのことだった。もしかして、以前いただいたテサロニケの大学で出したギリシア語教材のコピー版だとしたら、5課まで進んだというのは結構な分量だ。あの本は研究室にあるから、持って帰ってきて読んでおかなければ。

1週間の動詞集中学習は、何とか功を奏したようだ。動詞が時制ごとに人称変化できると、一応何とか話ができることを確認した。もちろん、初めて学ぶ外国語ではこういうことは無理だけれど、中途半端に習得したまま錆び付いてしまった外国語は、このようにすれば息を吹き返すし、やめた時点よりも幾分前に進める。

勉強は、ほんのちょっとしたコツが結果の違いとなって表れるということを、身をもって感じた。
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by ijustat | 2009-11-22 02:56 | Greek

現代ギリシア語

昨日、韓国正教会へ行って来た。ずいぶん以前私にギリシア語を教えてくださった韓国正教会の Αριστοτέλης 神父さんが、学会の発表を教会でするということで、招かれたのだ。それで、애오개にある성 니콜라스 성당(聖ニコラス聖堂)に行って来た。大変な出不精の私が、こうやって呼ばれると必ず行くのは、私が神父さんをどれだけ尊敬しているかという表れだ。これには自分でも驚く。

私が現代ギリシア語を勉強していたのは、もう6年ぐらい前のことになる。今でも、辞書を引けば何とか文の意味を取ることはできるけれど、会話もできないし、簡単な挨拶もだいぶ忘れてしまった。困ったけれど、付け焼刃はできないので、そのまま教会へ行った。

神父さんに会ったのは、2年ぶりだろうか。私の来訪を喜んでくださった。しかし、神父さんのギリシア語は聞き取れても、口からギリシア語が出てこない。とっさに出たのは、なんと英語! “Ναι.”と答えようとして、“Yes.”という言葉が口から出てきた。その間ギリシア語はほとんどやっていなかったのだ。

学会というのは、교부학회(教父学会)というキリスト教神学の学会で、そこで神父さんが「성 바실리오스의 수도운동(聖バシリオスの修道運動)」という題で発表したのだった。発表は、神父さんがギリシア語で話し、韓国人の요한さんが韓国語に通訳するという形で行った。内容はすばらしいもので、しかも実践的な価値もある話だった。通訳を通しての発表がいいのは、メモを取りやすいことだ。片方が話しているときは、メモをする立場では、空白の時間になるから、新しく発せられる言葉に悩ませられることなく、余裕を持ってメモをすることができる。

発表のあと、質疑応答の時間があった。そのとき、서울신학대학교の주승민教授という人が、なんと流暢なギリシア語で質問をした。だみ声だけれどよどみなく話されるそのギリシア語は、いやあ格好よかった。それを聞きながら、自分の不勉強を猛省した。

発表会に参加したのは、みなプロテスタント神学を専攻する人たちで、教父時代の神学を研究したり、それに関心を持っていたりする人たちだった。つまり、古典ギリシア語が読める人たちだ。韓国にはギリシア語が読める牧会者が驚くほど少ないのだけれど、ここに来た人たちは、例外だ。

学会については、まあ私の関心とは少し違うけれど、発表の内容は心に残ったし、ギリシア語に関しても、大いに刺激を受けた。

帰宅後、現代ギリシア語の入門書から、動詞だけをノートに抜き出した。ただし、抽象的な動詞は除いて、「食べる」とか「話す」というような、身近な動作を表す動詞だ。みんなもう知っている単語だけれど、すっかり錆び付いて、口から全然出てこなくなっているし、半分以上の動詞は活用すらおぼつかない。それらの動詞の錆取りをしようと思ったわけだ。

なぜ動詞かといえば、動詞は文の要だから、それがしっかりしていないと文が作れないのだ。逆に言えば、動詞さえしっかりすれば、名詞やその他の単語は、その周りに付けていけばいい。動詞がしっかりすれば、名詞だって覚え甲斐がある。

ところが、めぼしい動詞を書き出したところで、眠ってしまった。不勉強を猛省しておきながら、勉強を始めるや否や、眠気に襲われたのだ。
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by ijustat | 2009-11-15 01:39 | Greek

ギリシア語の入力

ギリシア語の入力は、次のように行うことができる。

1.まず、入力バーを右クリックして、「設定」を選ぶ。ウィンドーが開いたら、「追加」をクリックすると「言語入力の追加」という名前のウィンドーが開くので、そこから「ギリシャ語」を選択して、「OK」を押す。これで、ギリシャ語の入力ができるようになる。

2.入力する際には、入力バーから「EL」を選択すれば、ギリシア語が入力できる。

3.文字盤は、ほぼアルファベットと同じ。ただ、注意するのは以下の文字。

  q → ;
  w → ς
  y → υ
  u → θ
  h → η
  j → ξ
  x → χ
  c → ψ
  v → ω

  Q → :
  Y → Υ
  U → Θ
  H → Η
  J → Ξ
  X → Χ
  C → Ψ
  V → Ω

4.アクセント記号は、「れ」を押して離した後、該当する母音字を入力する。

  ά, έ, ί, ό, ύ, ή, ώ
  Ά, Έ, Ί, Ό, Ύ, Ή, Ώ

5.“ϊ”と“ϋ”は、「Shift+れ」を押して離した後、該当する母音字を入力する。

6.“ΐ”と“ΰ”は、「Shift+て」を押して離した後、該当する母音字を入力する。

7.Άνω τελεία“·”は、「右Alt+Shift」(ノートパソコンの場合、「Ctrl+Alt+Shift」)を押した上、離さないで「]」を押する。

8.Πολυτονικό Σύστημα の入力方法については、次のページを参照のこと。

http://homepage1.nifty.com/suzuri/000/pc6.html
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by ijustat | 2009-02-11 17:31 | Greek

Δωμάτιο

先日、ずいぶん前にインターネットで音楽ファイルと一緒に見つけた“Δωμάτιο”という曲の歌詞を、『現代ギリシア語辞典』を引きながら読んだ。

実はこの歌詞は、希英辞典を引きながら読んだとき、途中で難しすぎてわけがわからなくなり、4分の1まで読んだところで投げ出してしまっていた。それで長らく苦手意識を持っていたのだけれど、今回辞書の助けを借りながら、最後までいちおう理解しながら読むことができた。その間自分のギリシア語の実力が向上したとは思えない。辞書の威力の大きさをあらためて実感させられた。

日本で唯一という辞書を買うとき、その収録語彙が自分の読むテキストをどのくらいカバーできるのかが不安になるものだ。また、見出し語はあっても、自分が読むテキストに出てくる語の意味をどれだけカバーできる語釈または訳語が載っているかも気になる。自分の学習はその辞書に左右されるからだ。

その点に関し、『現代ギリシア語辞典』は驚くほど出てくる単語の意味を言い当てていた。しかも、訳語をむやみに羅列することもないので、単語の意味もすっきりと頭に入ってくる。この点は、もしかしたら“Oxford Greek English Learner's Dictionary”よりも優れた特徴ではないかと思った。まあ、私は英語が得意ではないから、何ともいえないけれども、こうやって無作為に選んだテキストの語彙をここまで的確に予測していて、意味もその中でまかなえるということは、この辞書の著者が本当にギリシア語に堪能であることを裏付けている。

なお、“Δωμάτιο”は、歌詞の内容が象徴的で、結局はよく理解できなかった。“...και καλοκαίρια γαλανά, θάνατοι και φωτιές, και αόρατη ομορφιά.(そして青い夏、死と炎、目に見えない美)”なんて続くと、各語の意味はわかっても、そのメッセージにまで入っていくのは難しい。ただ、理解はできないのだけれど、その言葉は美しい。ある映画で、誰かが「詩とは感じるもんたい」と言っていた。理解しようとしないで、感じようとすべきなのかもしれない。
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by ijustat | 2005-07-13 20:02 | Greek

λογοκλοπή

『現代ギリシア語辞典』を買ったことを書いたら、著者の方が書き込みをしてくださった。本当に光栄なことだ。

感激の勢いで、私も著者の名前で検索をしてみると、このブログ以外に、私のホームページの、掲示板の控えが出てきた。それを見ると、ちょうど1年前に、この辞書が出ることを知り、欲しがっている。はっきり欲しいとは言っていないけれど、この辞書のことをあれこれ書いたり引用したりしているところを見ると、欲しがっているのだ。

それから他のところを見ると、希日の電子辞典を作るプロジェクトがあった。この作業にも著者は加わっておられたのかと思うと、そうではなかった。このプロジェクトは閉鎖されていたのである。『現代ギリシア語辞典』の内容を無断で使用した部分が指摘されたためだ。

日本の辞書の歴史は、もしかしたら“剽窃”の歴史であったと言ってもいいかもしれない。辞書ごとにあまり違いがないというのがそれを物語っている。ひどい場合は、編纂中の辞書の執筆者が他の辞書に原稿を流用した例もある。大野晋の『日本語と私』にも、『岩波古語辞典』を作る時に執筆者の一人が他の出版社の古語辞典の編纂にも加わっていて、その内容を一部流用していたことが、自分たちの辞書が出る前に分かったということを書いている。これはそのひどい例かもしれない。大野晋は、その執筆者に編纂作業から降りてもらったとだけ書いているけれど、損害賠償はなかったのだろうか。

千野栄一が『外国語上達法』(岩波新書、1986年)に「筆者がたまたま勤務している大学の言語学の時間に、どのような方法で新しい外国語-日本語辞典を作るかという質問をしたところ、一人として作品から語彙をひろうという発言がなかったのには全く驚いてしまった。すべての学生が『既存の辞書を集めて』と発言したのである」(p.139-140)と書いている。しかし、これは残念ながら日本の風土らしく、「多くの辞書が既成の外国語のある辞書――通称、タネ本――をもとにしている。それだからこそ、あれほど進んでいる英和辞典でも、しばしば全く同じ例文が異なった辞書に出てくるのである」(p.139)ということだ。(同じ内容を、『言語』の連載記事(1980年5月号 p. 104-6)ではもっと詳しく書いている。)

見出し語の選定にも問題があった。挫折した電子版希日辞典は、『現代ギリシア語辞典』の見出し語も使用していたという。見出し語にどの程度の著作権があるのかは分からないけれど、あからさまにほとんど同じ語彙を用いるならば、著作権侵害の謗りもまぬかれないだろう。

ただ、もし日本に現代ギリシア語の辞典がたくさん出ているという状況だったならば、電子版の希日辞典の運命もだいぶ違っていたことと思う。日本では、現代ギリシア語の学習者はとても少ない。そのため、希日辞典を買う人も、きわめて少ないのが現状だ。そのために、『現代ギリシア語辞典』には驚くほど高価な値段を付けざるをえない。そこへ、無料の電子辞書を公開することはいいかもしれないけれど、その唯一の辞書から流用した内容が含まれているとなれば、問題は穏やかではない。

ただし、電子版希日辞典を作るプロジェクトは、いいことだと思う。できれば、誤って流用してしまった部分を取り去り、もう一度、実際の用例を丹念に集めながら、その無償の作業を育てていってくれればと思う。

ちなみに、私は一人で作った辞書を3種類持っている。一つは大槻文彦の『言海』、もう一つは齋藤秀三郎(豊田實増補)の『熟語本位英和中辞典』、そして三つ目が、この川原拓雄の『現代ギリシア語辞典』だ。『言海』の「ことばのうみのおくがき」にもあるように、一人で辞書を作るというのは壮絶な作業だ。これは、『現代ギリシア語辞典』の「まえがき」にもかすかに仄めかされている。後発の辞書を作ろうとする人は、そのことを十分念頭においておくべきだ。
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by ijustat | 2005-07-08 17:36 | Greek

現代ギリシア語辞典[第三版]

食事を済ませた午後8時半ごろ、携帯電話に音声メールが来た。聞いてみると、“안녕하세요? 여기 교...”とまで録音されていて、ブツッと音が切れていた。

しかし、直感的に、교보문고 に注文していた辞書が入ったのだと思った。そう思うと、いても立ってもいられなくなり、9時に閉店だというのに、大慌てで家を飛び出し、車に乗って 교보문고 まで行った。着いたときにはすでに閉店間際の音楽が店内に流れていた。

日本書籍コーナーへ行って、少し前に音声メッセージを受け取ったので来たと言うと、透明なビニールをかぶせてあるワゴンから、見たことのある青いケース入りの本を取り出してきた。『現代ギリシア語辞典』だ。

この本はとても高い(18,000円!)ので、ずいぶん長い間手も出せなかったのだけれど、今回思い切って買うことにし、今月の初めごろ注文した。今までずっと希英辞典を使っていた。たまに希希辞典を読むこともあった。しかし、私の持っている辞書は、とてもいい辞書ではあるのだけれど、語釈の英語が殺人的に難しかった。もっとも、分かりやすい単語も必ず含まれているのだけれど、半分が「こんな英単語もあるのか」と思うようなもので埋められているのだ。これは現代ギリシア語のテキストをたどたどしく読む者にとっては困難さを増加させるものだった。希希辞典は、知らない単語を引くには難しすぎる。知っている単語で辞書読解の練習をするのがせいぜいのところだ。それも、一つの単語の語釈を読むのに20~30分はかかる。

それで、ぜひ自分も希和辞典を持ちたいものだと願っていた。一方、現在韓国では韓国外大のギリシア・バルカン語科の 유재원 教授が希韓辞典を製作中という。その知らせを最初に聞いてから、교보문고 に行く度に辞書コーナーへ行っていたけれど、今年の始めに 유재원 教授にお会いする機会があって伺うと、今始まったばかりだということだった。ということは、完成するのは何年も先のことだろう。ギリシア・バルカン語科の学生に会う機会があったとき、辞書はどうしているのか聞いてみると、希英辞典を使っているという。彼らは英語が得意かもしれないけれど、それでも難しい英語でもっと難しいギリシア語を勉強するというのは本当に大変なことだと思う。

そういうわけで、自分のギリシア語学習を何とか容易にしたいものだと願っていたけれど、それにはどうしても、目の玉が飛び出すほど高い『現代ギリシア語辞典[第三版]』(川原拓雄著、リーベル出版)が必要だと思った。

今年の3月に日本へ一時帰国していたとき、川越の紀伊国屋書店に置いてあるこの本を一度見たことがある(神田の三省堂でも池袋のリブロでも見かけなかった)。辞書としては、装丁は洗練されていて美しいけれど、内容を見た感じでは、普通の辞書と比べて目立ったところはなかった。それに、語数も3万4千という小事典並みで、値段が1万8千円というすごさだ。手が出ないことはないにせよ、ギリシア語学習者をひるませるに十分な価格だ。ただし、説明は英和辞典並みに丁寧で、重要語には用例も載っていた。いくつかの単語を連鎖的に引いてみると、結構面白い知識も与えてくれた。それに――これが一番大事な点だけれど――日本語なので読みやすい。それで、その後この辞書のことがずっと心に残っていた。

辞書は、使い方によって、違った顔を見せる。ただ読むときに面白さを感じさせるか、テキストを読みながら知らない単語を引いたときにテキストの理解を助けるか、それは実際に使ってみないことには分からない。アマゾンでは好評というか好意的な評価を得ているところを見ると、テキストの読解を容易にしてくれているのではないかという期待がわいてくる。私にとって、外国語は読むことによって伸びるもので、辞書はその重要な案内者となる。辞書は引くだけのものではないと強調されるけれど、引くことの重要さは、他の何よりも際立って重要なもので、これが不便なら、辞書としての機能は著しく劣っているというべきだ。

私は、辞書は引くものであると同時に、可能な限り“希希辞典”によって正確な概念を得るべきだと考えている。しかし、今の私にとっては、希希辞典を普通に使用するというのは無謀な話なので、まずは希和辞典である程度ギリシア語のテキストに馴染んでから、希希辞典を使えるようにしたいと思う。このように、一生使うわけではないことが最初から決まっているものに胸が高鳴るというのは、自分でも不思議なことだ。

ただ、私にはアリストテレス神父さんからいただいた、 "ΜΕΙΖΟΝ ΕΛΛΗΝΙΚΟ ΛΕΞΙΚΟ" (ΤΕΓΟΠΟΥΛΟΣ ΦΥΤΡΑΚΗΣ 著、ΕΚΔΟΣΕΙΣ ΑΡΜΟΝΙΑ Α.Ε., 1997) があり、『現代ギリシア語辞典』は、それを使えるようにするための橋渡しとして、重要なものになる。希和辞典が手に入ることに胸が高鳴るのは、この少し先の希望が比較的容易に叶うステップができた喜びかもしれない。

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実際に“Η ΖΩΗ ΤΟΥ ΧΡΙΣΤΟΥ”という本を、『現代ギリシア語辞典』で知らない単語を引きながら読んでみた。この本のプロローグを読んだのだが、大きい活字で1ページばかりのテキストを、希英辞典で読んだときには途中から分けが分からなくなり、辞書の語釈の中から適切な意味を探すこともできなくなって、4~5行読んでやめてしまった。しかし、語釈が日本語だと、適切な意味を探しやすくなる。そのおかげで、いちおう終わりまで、大体の意味を理解しながら読むことができた。

まだ文法的にはっきり分からない部分もある。また、アクセントの位置が辞書や動詞活用表と違うところも2箇所あった。そのような部分の解決は、語学力の方で何とかすべきことだろう。

とにかく、これで現代ギリシア語の学習がかなり楽になったことは確かだ。あとは、辞書を引きながら少しずつギリシアの現代文を読んでいくことで、現代ギリシア語に慣れていくことができそうだ。
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by ijustat | 2005-06-30 22:34 | Greek

Ειρήνη υμίν.

“Ευαγγέλιον το κατά Ιωάννην”を読み終えた。今日は仕事が午後からあって、午前中は休みだったので、その時間を利用してとにかく頑張って読み終えた。これで今月の目標の一つが完了した。

読みながら、今まで気づかなかった点をいくつか発見した。

まず一つは、弟子 Θωμάς(トマス)は Δίδυμος とも言われると書かれているが、δίδυμος というのはギリシア語で“双子”のことで、Θωμάς はアラム語で“双子”のことらしい。ということは、この弟子の名は「双子」なわけだけれど、いったい誰の双子なのか。自己紹介で、「わたしは双子です」といえば、双子の兄弟がいることになるけれど、そのもう一方はいったい誰か。

トマスは復活したイエス様が最初に現われたとき、その場に居合わせなかったために会えなかった。他の弟子たちが“Εωράκαμεν τον Κύριον.(我々は主に会った)”と言ったとき、“Εάν μη ίδω τον δάκτυλόν μου εις τον τύπον των ήλων, και βάλω τον δάκτυλόν μου εις τον τύπον των ήλων, και βάλω την χείρα μου εις την πλευράν αυτού, ου μη πιστεύσω.(もし私がその釘の痕を見ず、私の指をその釘の痕に入れず、また私の手を彼の脇に入れなければ、私は決して信じない)”と言い張ったけれど、それからふたたびイエス様が現われるのは、その直後だと思い込んでいた。

ところが、“Και μεθ' ημέρας οκτώ πάλιν(それからさらに8日目の後)”と書いてあった。トマスは他の弟子たちの言葉を信じないまま、それでも一緒に8日間も一緒に屋上の間にこもっていたわけだ。ここで「8日目の後」という変な日本語に訳してみたけれど、直訳すれば「8日後」だ。しかし、当時まだ西洋人はゼロという数を知らなかったので、本当は「8日目(つまり7日後)」だったのではないかと思う。これは聖書によって訳し方が分かれているところを見ると、解釈が難しいところらしい。

その後、弟子たちのうち7人がガリラヤ湖で漁をしていたが、夜通し網を下ろしても1匹も取れなかった。そこへキリストが現われるが、誰もそれを主だとは気が付かない。キリストは弟子たちに、“Παιδία, μη τι προσφάγιον έχετε;(子たちよ、何か食べる物はないのか;NIVでは Friends, haven't you any fish?)”と言われた。この“προσφάγιον”というのはパンに付けて食べる“付け合せ”のことで、婉曲に魚を意味する。キリストはまた、“Ενέγκατε από των οψαρίων ων επιάσατε νυν.(今獲った魚をもっておいで)”といわれたときの“οψάριον”も、パンと一緒に食べるおかずのことで、これもほとんど魚を意味する。このように、“魚”を意味するのに食べ物を表わす単語を用いるところが婉曲的だと思った。

ではもともと魚を表わす単語はといえば、そのすぐ後に“...το δίκτυον ..., μεστόν ιχθύων μεγάλων εκατόν πεντηκοντατριών(153匹の大きな魚で一杯になった網)”という文の“ιχθύς”が本来の“魚”だ。この“ΙΧΘΥΣ(=魚)”という符号は初代教会で、クリスチャンであることの暗号として用いられた。“Ιησούς Χριστός Θεού Υιός Σωτήρ(イエスキリスト神の御子救い主)”の略号だ。

現代ギリシア語で魚を表わす単語は、先程の“おかず”を意味する“ψάριον”が若干変形した“ψάρι”だ。日本語でも「さかな」はもともと“酒菜”、つまり酒の料理という意味から来ているというのはギリシア語と似ていて面白い。

またついでに言うと、“δίκτυον(網)”の頭に“δια-”を付けて“διαδίκτυο”というと、“インターネット”の意味になる。もし古典風に“διαδίκτυον”と書いたら、“インタアネツト”とでもいったところになるか。

というわけで、初めて原語の福音書を辞書を引きながら読み終えることができた。これは自分にとって一つの区切りになった。すばらしいことだ。
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by ijustat | 2005-06-28 20:58 | Greek

Διψώ

ここ何日か、インターネットの設定をいじってしまってつながらなくなり、このブログに書き込めなかった。連日ジメジメしていてけだるかったし、来客もあって、勉強らしい勉強は何一つできなかった。それに家の中はいつもうるさくて、気が散ってばかりだ。

そんなわけで、土曜日に“Ευαγγέλιον το κατά Ιωάννην”の19章を読み終わったあと、まったく読み進める余裕がなかった。この章は、キリストが十字架に付けられて息を引き取られる場面だ。他の福音書に比べて、簡単に書かれている。ただし、日暮れ前に息を引き取られたキリストを、ο Ιωσήφ ο από Αριμαθαίας(アリマタヤのヨセフ)とΝικόδημος(ニコデモ)とが丁重に葬る場面は、他の福音書にない独特な部分だ。

キリストは息を引き取られるとき、すべてが完了したのをご覧になって“Διψώ.(のどが渇いた)”と言われた。この言葉は日本語訳の聖書では、「わたしは渇く」と訳されている。日本語として意味を成していないような気がするけれども、このように訳すべき神学的理由があるのだろう。一般の読者としては、「わたしは渇く」と言ったら、むしろ“Διψήσω.(I'll be thirsty.)”の意味に取ってしまいそうだ。
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by ijustat | 2005-06-27 21:35 | Greek