カテゴリ:Japanese( 7 )

どう読むのか?

インターネットで探し物をしていたときに見つけた。これはいったいどう読むのだろうか。
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キャプチャリングした画像の該当する字の下に赤線を引いておいた。「10つ」というのは、どう読ませるつもりで書いたのだろうか。まさか、「とおつ」? 「じゅっつ」?

それから、この画像には、「精華大学」という字が見えるけれど、これは「清華大学」のことだろう。大学の名前を間違えるなんて。読みが同じだなどと言ってはいけない。中国語では「精华(jīnghuá)」と「清华(qīnghuá)」は別の音だ。

そういうわけで、ちょっと信頼性を疑ってしまう。

「ハイディエン(hǎidiàn:海淀)」を「ハイディアン」と読ませるのは、もしかしたら、この会社の決まりかもしれない。でも、読みをつづり字にあわせてわざわざ実際の発音から遠ざける必要性があるのだろうか。これが決まりなら、実用性のない決まりだ。

(「近」とか「送」の字がおかしくなっているのは、私のコンピュータが韓国語のウィンドーズを用いているからで、この文章を入力した人の責任ではない。)
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by ijustat | 2012-12-06 22:07 | Japanese

奇妙なPDFファイル

PDFファイルの学術論文に、「一曰。以和為貴。無忤為宗。人皆有黨…」という十七条憲法の断片が引用されていた。

全文はどうなっているのかと気になり、そこから「無忤為宗」(忤<さから>ふこと無きを宗<むね>とせよ)という文句をコピーして検索すると、何も出てこなかった。あれっと思って検索ウィンドーを見ると、「無身為宗」(身<み>無きを宗<むね>とせよ)と化けていた。

何じゃこりゃと思い、今度は「人皆有黨」(人みな党あり)をコピーしてみた。すると今度は、検索ウィンドーでは「人皆有窯」(人みな窯<かま>あり)となった。卒倒しそうだ。

ではと思い、「一曰。以和為貴」(一に曰<いは>く、和を以て貴しとなし)をコピーして検索ウィンドーに貼り付けた。これも、「一日。心持為貴」(一日<いちにち>、心持<こころもち>は貴しとなり)と出てくる。こりゃ意味不明だよ。

何でこんなことになるのかと考えてみたら、このPDFファイルは、どうやら紙に印刷されたものをスキャンしたものらしかった。GIF特有のギザギザが見える。ということは、これは自動でテキスト化しているということだ。

そう考えると、けっこうすごい技術だ。
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by ijustat | 2012-08-02 04:52 | Japanese

「お返事」と「ご返事」

ある日本語学習雑誌の日本語校閲をしながら、「お返事」か「ご返事」かで迷った。自分は「ご返事」を使うけれど、「お返事」も悪くない(※あとで自分のサイトを検索してみたら、「お返事」は77件も出てきたのに、「ご返事」は1件しか出てこなかった。しかもこの1件は、私が書いたものではない。私に関して言えば、自分がどんな言葉を使っているかという意識は、てんで当てにならないものだ<3月10日追記>)。そこで、インターネットで用例を見てみた。グーグルによると、「ご返事」は約 4,660,000 件で、「お返事」は、なんと約 82,900,000 件。つまり、「お返事」が「ご返事」の約18倍も出てきたわけだ。圧倒的に「お返事」が優勢だ。

しかし、あるサイトでは「『お返事』――え、この言葉のどこが? と思った人は、既に毒されております。いうまでもないことだけど、『返事』の正しい丁寧語は『お返事』ではなくて『ご返事』でありますよ」と主張している。この手の意見は胡散臭いので、近代日本語の粋を集めた「青空文庫」の中を調べてみた。グーグルの検索ウィンドーに以下のように入力する。

  "ご返事" site:www.aozora.gr.jp

その結果、青空文庫でも、「ご返事」は約 29 件、「お返事」は約 104 件と出た。つまり、「お返事」が「ご返事」の約3.6倍出てきたことになる。ウェブ全体でも青空文庫でも、やはり「お返事」の方が優勢だ。夏目漱石や与謝野晶子などが「お返事」を用いている。これを見れば、「返事」の正しい丁寧語は「お返事」ではなくて「ご返事」だなんて、チャンチャラおかしい意見だということが分る。ことばの規範について偉そうに言っている意見を鵜呑みにしてはいけない。

もっとも、「御返事」という表記では、ウェブ全体で約 1,350,000 件、「青空文庫」でも約 248 件と、圧倒的多数を見せている。ただ、この「御」が「ご」と読まれることを考えて使われたのか、「お」と読まれることを考えて使われたのかは知る由もない。また、最近では、「おへんじ」と読むときは「お返事」と書き、「ごへんじ」と読むときは「御返事」と書くというように使い分けられている可能性もある。そうすると、「返事」をめぐる「お」と「ご」と「御」の関係は、ますます複雑になる。

一方、NHKでは、「最近では「お返事」と言う人が多くなりつつあります」と結論付けていて、「ウェブ上でおこなったアンケートでは、「お返事と言う(ご返事とは言わない)」という回答(全体で63%)が、若い人になるほど多くなっていることがわかりました。また、特に女性はこの答えを選ぶ傾向が強く見られました(男性56%、女性68%)」という調査結果を紹介している。

たしかにそうなのかもしれないけれど、グーグルでの用例を見ると、本当にそう考えていいのかどうかは疑問が残る。それに、その記事にある年齢別の使用グラフも、本当に世代による変遷を表しているのかどうか疑わしい。

近代文学の多い青空文庫と、最近書かれたものが多いウェブ全体とを比較すると、たしかに変遷がある感じもする。けれども、「御返事」が隠れたカードになっていて、何ともいえない。それに、アンケートの結果にしても、「お返事」と「ご返事」は昔から揺れている表現なので、歳を取るにつれて何らかの規則意識が規範意識に影響してくることも考えられる。先ほどの胡散臭い主張に露出する可能性も、人生を長く生きれば生きるほど高くなる。そのため、昔は「お返事」も使っていたのに、「返事」が漢字語であることから、だんだんと「ご返事」の方がよさそうに感じられてきた、なんてこともありうる。私のように、実際にはほとんど「お返事」ばかりを使っていながら、自分は「ご返事」を使っているなんて思い込んでいる人も、たくさんいるだろう。

では、なぜ同じ漢字語でも「ご食事」「ご電話」という人はほとんどいないのか。「返事」では「ご返事」も頑張っているというのに。ふたたびグーグルで頻度を比べ見てみよう。

 ご食事:約 16,300 件
 お食事:約 104,000,000 件

 ご電話:約 39,700 件
 お電話:約 190,000,000 件

「お食事」は「ご食事」の約6千4百倍、「お電話」は「ご電話」の約4千8百倍も使われている。こんなに頻度差があったら、まるで比較にならない。たとえば、「お食事」という言葉を1年に300回聞いたとすると、約20年に1度、「ご食事」という言葉を聞くかもしれないという計算になる。私は23年前、外国人が「ご食事」と言って笑われている現場に出くわしたことがある。「ご電話」を聞いた記憶はない。これでは規範意識が揺らぐことはありえない。「お返事」と「ご返事」の問題とは次元が違う。

ちなみに、NHKで「お返事」と「ご返事」について扱っているページは次の通り。「どちらも正しい言い方です」と言っている。根拠なしに規範を振り回したりする愚は犯していない。

  http://www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/term/148.html
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by ijustat | 2012-03-08 09:48 | Japanese

はじめに理屈ありき!

高校生の頃、日本語は論理的でないということを学校の図書館から借りてきた本で読んだ。学校の先生も、日本語は論理的でないと言っていたような気がする。日本語に関して言及された文では、たいてい日本語は論理的でないと書かれていた。

私はそれを真に受けた。というより、父の口から発する非論理的な言葉の数々を見て、日本語が論理的でないことに納得してしまったのだった。それは本当に不幸なことだった。少なくとも父が論理的にまともな話し方をしていれば、私は日本語が論理的でないというでたらめを信じることはなかったはずだ。

日本語を教えながら、上級の学習者に文章の読解を教えていると、文章の達人たちがいかに繊細な論理を巧みに操っているかが分かり、驚くばかりだ。文の構造とそれぞれの語の意味を巧妙に組み合わせて、全く無駄なく、しかも複線を敷いて、うねらせながら、読者を引き込んでいく。その構造を分析して“非論理的だ”と言えるわけがない。日本語は驚くばかりに論理的な言語なのだ。

今回日本に戻って父と話していたら、漢字をあまり知らない中学生の上の子に、文通によって日本語を鍛えてあげると言った。しかし、私は父の文章は嫌いなのだ。いろいろ豊富に単語を持ってきては使うけれど、結論として何が言いたいのか分からないこともあるし、分かったとしても、思索が浅くて読むに堪えない。そんな空虚なものを孫に読ませて何の教育をするというのだろう。

それで、文通なんかするよりは、街に出て漢字を教えると言ったら、論ずるより実践あるのみと言う。どこまでも文通を正当化させるつもりらしい。またかと思った。父は、自分では理屈っぽく自分の意見を言うくせに、言い返されると、理屈を言うなという。父は「理屈」を「屁理屈」とほぼ同義に使っている。

しかし、この世界は理屈によって出来上がり、理屈によって動いている。ヨハネの福音書の冒頭にも、「初めに理屈があった」と書いてある。え、そんな馬鹿な、“ことば”とは書いてあるけれど、“理屈”だなんて書いてない! と言われるかもしれないけれど、原語では“Εν αρχή ην ο λόγος,”と書かれていて、この“λόγος(ロゴス)”は単に“ことば”以上の広い意味を持っている。

昨夜買った『師道』(小原国芳著、玉川大学出版部)を読み始めたら、こんな言葉に出くわした。

「バイブルのヨハネ伝第一章の第一節にあるように「はじめに言(ことば)ありき。言は神と共にありき。言は神なり」とありますが、英語の聖書にも、In the beginning was the word. とあります。ドイツ語の聖書にも Im Anfang war das Wort. とあります。
 ところが、中国語訳の聖書には「元始有道」とあります。原本のギリシャ語の聖書にはロゴス(logos)とあります。ロゴスという言葉の中には「ことば」という意味もある外に、更に宇宙の大道、大法、理法、理性という高く深い意味があります。」(p.7)

この著者の言いたいことは、それを受けて「実に、武士道、騎士道、柔道、剣道、弓道、茶道、華道、書道、角力道と、道でありたいのです」(p.8)と言っているように、別のところにあるのだけれど、これが面白いと思ったのは、多くの知識人が「はじめにことばありき」という一句を引用する時、文字通り日本語の「ことば」かせいぜい英訳聖書の“Word”を見ながら云々しているだけなのに対し(“豆単”の序文もそうだったけれど)、原語の「ロゴス」にまで遡って考えている点だった。この句が述べている意味の深さは、日本語や英語に訳されたものでは感じることすらできない。

中国語の「道」という訳語はなかなか奥妙だ。これは「みち」から「言う」まで、幅広い意味を持っている。「元始有道」という句は、「道可道、非常道(口で説明できる理屈というのは、不変の理屈になりえない)」という『老子』の冒頭の句を連想させる。「道」は「ロゴス」によく似ている。老子は、この冒頭の一句からも分かるように、言葉で言い表されたロゴスを信用しなかったけれど、ロゴスは人が口で説明できようができまいが、もとから存在するものだ。

理屈(=ロゴス)によって世界は動いている。それを私たちは実践だけで見つけることも難しいし、闇雲に実践したとしても、それが理屈に合っていなければ、不毛な努力を続けるばかりだ。理屈は空論ではない。理屈を見つけるために、多く学び、多く経験し、更に考察を加えることを、「実践」と対比させてしまうのは、実践そのものの足場をも否定してしまう態度だ。

そういうことが平気でできる人の日本語は、当然「非論理的」といえるだろう。そういう人たちは、理屈として成り立たない非論理的な自分の言葉を「日本語らしい」と思い、誇りを持つかもしれない。しかし、彼らは日本語を豊かにすることに貢献はできないだろう。日本語は論理的だし、生産的だ。日本語で書かれた名作は、論理的な日本語で書かれている。それが明瞭(または露骨)に表れていないだけだ。

「初めに理屈があった。この理屈は世界の創造者と一緒にいた。そしてこの理屈こそ、創造者なのだった。」だから、理屈を求めることは、大切な態度だ。そして、日本語は論理的な言語だ。日本語を用いて、人々の経験や身の回りの自然から、その背後に存在する理屈を見つけ出すことは、可能なことだ。そしてこれは、実に日本的な態度だ。なぜなら人間は生まれながらにして「統語能力」という論理的に言語記号を操る能力を備えているし、日本人もその例外ではないからだ。その言語能力の上に日本語は立っている。その日本語は、理屈を通して神に繋がっている。

最近になって、“日本語非論理”論に反論を唱える声が強くなってきたようだ。統語論も意味論も、日本語の論理性を証明するばかりだった。それによって、知識人たちが唱えていた日本語の非論理性がどれだけ杜撰な論であったかが明らかになった。いや、論理的におかしな表現というのは、いつの世でもどの言語でも生じるものだけれど、その特徴は、多くの人たちが“変だ”と感じ、次第に使われなくなることが多いという点だ。その点では、どの言語でも非論理性を含んでいるといえる。それにもかかわらず、まだ日本語が他の言語に比べて非論理的だと信じている人は多いだろう。それだけ、俗信というのはしぶとく生き延びる。しかし、日本語は論理的な言語だ。だから、誰でも自信を持って、日本語で理屈を追求していった方がいい。
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by ijustat | 2005-07-25 12:52 | Japanese

「~ようにする」

電卓を叩きながら成績処理の計算をしていると、ある出版社から電話があった。日本語学習誌の記事で、疑問に思うところがあるという。私の原稿がおかしいのかと思ったら、他の人のものだった。

ある原稿に「~ようにする」という表現文型があり、「努力」と「習慣」の二つの意味があると書いてあったが、「習慣」の意味の例文に「毎日運動するようにしました」とあって、「努力」の意味と区別がはっきりしないということだった。確かに、習慣の意味はその例文では「毎日」が担当している。そして「しました」は努力を決意したことを表わしている。文型自体では努力の意味と区別する方法がない。

「저자분과 상의하셨어요?」と聞くと、「그 저자분이 무서운 분이에요.」という。それで、ヤフーで用例を検索しながら一緒に考えた。私の直感では、意味が二つあるのではなく、あくまでもこの文型は「努力」の意味が中心で、用例によっては習慣の意味を含みもする。だから、説明をそう変えた方がいいと指摘した。そして例文も、「運動するようにしました」ではなく、「運動するようにしています」とした方が、習慣の意味を表わしている感じを与えると話した。

そうしたら、「어떻게 해석하면 좋을까요?」と言われた。これは難しい。なぜなら、「~ようにする」は「~하도록 하다」だけれども、「~するようにしている」を「~하도록 하고 있다」と言ったら意味をなさないからだ。これは私よりも編集者の方が得意なはずだ。しかし、これも一緒に考えてみた。いくつか考えたけれど、「운동하는 것을 습관으로 하고 있습니다.」がいちばんいいように思われた。こうすれば、著者の言う“習慣”の意味にぴったり合う。ただ、これでどんな文脈でも自然な韓国語になるという保障はない。これを参考に、編集の人がいい韓国語を見つけるだろう。

電話を切ってから『日本語文型辞典』(くろしお出版)を見ると、「努力」の意味だけが指摘されていて、その用例の中に、“習慣”の意味と指摘されていた類の例文も含まれていた。もちろんこの辞書では“習慣”の意味は指摘していない。私もやっぱりこの辞書の説明が妥当だと思った。

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成績評価表の入力を3時半に終えた。大変な作業だったけれど、何とか終えることができてよかった。来週月曜日から水曜日まで、成績評価異議申請期間で、そのときどうするかと 조교 に電話で聞かれたので、個別面談すると答えた。

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"운동하는 것을 습관으로 하고 있습니다"라는 표현은 좀 어색하다고 들었다. '습관으로'를 '습관같이'라고 하면 자연스러워진다고 한다. 하긴 부사적인 용법으로 '습관으로'라는 표현은 들어본 적이 없다. 왜 내가 그때 그런 표현을 생각했을까? 보통 어디서 보거나 들은 적이 있는 표현이 아니면 쓰지 않는데 말이다.
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by ijustat | 2005-06-24 11:37 | Japanese

採点

今日は、午前から午後まで用事があって外出したあと、学校の事務室へ行って期末テストの採点をした。

4時半ごろ事務室に着くと、誰もいなくて鍵がかかっていた。警備室へ行って鍵をもらった。「일본어과 사무실의 키 주세요.」というと、「학생이에요?」という。「아뇨, 교수예요.」と答えたけれど、何となく口幅ったかった。鍵をもらって事務室に行き、扉を開けると、もうみんな帰宅したというのに、クーラーがかかっていて涼しかった。家だと暑くて仕事にならないから事務室に来たので、ちょうどよかった。

コンピュータを出して採点作業を始めるとすぐに、土方姿の見知らぬ男が入ってきた。「어떻게 오셨어요?」と尋ねると、戸惑いの色を見せて口をもごもごさせた。それで今度は「무슨 일로 오셨는데요?」と言うと、「에, 에어컨 떼러 왔는데요.」という。そういえばさっき、事務室の前の廊下に台車があって、そこにクーラーが積んであった。夏休みに入って構内の工事を始めたのだ。しかし、今日ここに来た目的がクーラーだから、いま持って行かれたら困る。それで、「내일 해 주시면 안 될까요?」とゴネてみた。すると、しばらく困ったような顔をして考えた挙句、「네, 내일 하죠.」と言って出て行った。

今学期は中間テストも期末テストもインタビューをした。それはいいとして、その採点が半端ではなかった。一人1分程度の録音を聞いて採点するのに5分も6分もかかる。それが126人。中間テストでは発音も念入りにチェックしたけれど、期末テストの採点では時間が足りそうもなかったので、流暢さと正確さを中心にチェックした。すると、平均点が8点ぐらい高くなってしまった。これは困った。

8時ごろ作業を休んで学校の外へ出、近くの 김밥 屋で 치즈김밥 と 참치김밥 を買った。この店はある異端の宗教が経営しているといううわさがあって、そういう所の資金源調達に加担してしまうのは良心が咎めたけれど、この近所で手ごろな軽食を買えるのはここしかない。店に入って注文し、店員が 김밥 を作っている間、ふと壁を見ると、냉면 の写真と一緒に“세숫대야 냉면”と印刷された横断幕がかけられていた。ずいぶんえげつない名前だと思った。「세숫대야 냉면이라니, 이름이 좀 그러네요.」と言うと、店員は同意するともしないとも取れない曖昧な笑いを漏らした。

10時まで作業をした。まだ20人くらいの分が残っていたけれど、仕事を切り上げて家に帰った。帰りに 뿌리서점 に寄り、古本を物色してストレス解消をした。洋書の棚の前に COD 第4版のもっときれいなのがあるのを見つけた。値段は同じだ。今持っているのを売ってそれを買おうか。

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その後採点は午前2時に終了。成績処理は午後5時まで。さあ、これからひと寝入りだ。
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by ijustat | 2005-06-23 23:53 | Japanese

5, Feb. 2005

My new Japanese textbook was published at last. The name of it is "Chakchak Cheokcheok Ilboneo Cheot Georeum(착착 척척 일본어 첫걸음)." Every page was printed in colours, and the illustrations are nice. I hope this book will be one of the long sellors in the publisher.
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by ijustat | 2005-02-06 16:21 | Japanese