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입회

한글학회から封筒が届き、入会の申し込みが承認されたと書かれていた。これで、한국문법교육학회と合わせて、二つの学会の会員になった。한국문법교육학회の方は、入会費を払うだけで会員になれてしまうけれど、한글학회の方は、形式的とはいうものの、審査がある。
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by ijustat | 2006-11-04 00:18 | Study

한글학회

土曜日に부산대학교で開かれた한글학회で、発表してきた。

한글학회は韓国語学でたぶんいちばん古い学会で、大きな学会だと思うのだが、分科会を行わず、一つの部屋で朝から夕方までずっと発表会を行っていた。

たいていの学会は、決まった時間に近づいたら鐘を鳴らして発表者に知らせるのだが、한글학회は、そういうことをしないので、熱弁を振るう先生がいると、時間がずれ込んでしまう。そういうわけで、当初の閉会予定時刻は6時だったのが、6時半過ぎにずれ込んだ。

私は、発表時間を短くする練習をたくさんしていたので、一人の発表に割り当てられている20分以内に発表が済み、参加者の先生方から歓迎されたと思う。(笑)

私の発表に対する討論者は、홍사만先生だった。修士論文を書いたとき、홍사만先生の著書を読んで勉強していたので、一度お会いしたいと思っていた。それがこういうところで実現した形になった。接続助詞「て」と韓国語の該当するものを対照した私の研究に、興味を持ってくださった。

한글학회は、入会規定が厳しく、推薦人が2人必要で、入会時に論文も提出する必要がある。学会誌への投稿は、入会してから出ないとできない。

それで、今日の発表要旨は論文として認められませんか、と聞くと、大丈夫だ、と言われた。それから、推薦人が必要なんですが、というと、第1部で司会をされた박선자先生と、もうひとりの年配の先生が、入会申込書にサインをしてくださった。大変失礼なことに、サインをしてくださった先生のお名前を失念した。

한글학회の雰囲気は、純国粋主義的な気風があり、最初は度肝を抜かれた。しかし、それと同時に、家族的な雰囲気があり、外国人の私にも屈託なく親切で、それにも戸惑わされた。不思議な体験をした、最初の学会発表だった。

あとの関門は、入会が承認されることと、そのあとは、投稿した論文が学会誌「한글」に掲載されることだ。
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by ijustat | 2006-10-22 13:02 | Study

学会の発表原稿

指導教授の計らいで、한글학회で発表させてもらえることになり、修士論文を短く整理して昨日ようやく完成し、担当の先生に原稿をメールで送った。

短く整理とはいっても、部分的にずいぶん書き換えたところもあった。論文を書くときには全然気づかなかった事実にたくさん気づいたし、そのために、間違った分類もだいぶ目についた。それで、骨格と例文以外は、書き改めたと言ってもいいくらいになってしまった。

これが修士論文というものなのだろうか。先生方はよく通してくださったものだ。本当にありがたいことだ。と、そんなことを、間違いだらけの修士論文を目の前にして考えた。

そんなわけだから、発表原稿を提出はしたけれど、どうも自信がない。こういう気分は困ったものだ。
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by ijustat | 2006-10-07 05:17 | Study

修論を書き終えて

私がまだ修士論文に手を付けてもいなかったころ、修士課程を卒業したばかりで自信満々に私の前に現れた人が2人いた。一人は日本語教育が専攻で、もう一人はキリスト教神学が専攻だった。その2人は一様に、自分が一人前の研究者になったように振る舞い、今まで誰も気づかなかった真理を見出したように私に話し、私にその賛同者または弟子のようになるように勧めた。私はどちらもちょっと首を突っ込んだあと、つまらない考えだと思って断った。

この経験は、私に多くのことを考えさせ、また混乱させもした。

その2人は、その後まったく表立った活躍をまったくしていないようだ。一人は私に研究の方法を教えてやると自信満々に言っていたのに、いまだに学会での発表もしていないようだ。研究のすごい方法を吹聴していたけれど、この結果を見て、やっぱりそんなものだろうと思った(もちろん、あとで活躍を始めるようになるかもしれないけれど)。会った当初は、自分の師になる人かとも思ったが、すぐにこの人はおかしいと思った。人格が変なのは我慢するとしても、思考の方法自体に欠陥があると判断し、手を切った。

もう一人は、どうも異端に走ってしまったようだ。教会に顔を出すこともなくなった。聖書の正しい解釈の発見なんていうのは、よほどの偉人や碩学でない限り、たいていは基礎を見誤った誤解で、そんなのに邁進したら、人間がおかしくなってしまうのが関の山だろう。聖書というのは、ごく平凡で素直に読む人には、限りない滋養を供給してくれるけれども、新奇な解釈を狙って読む人を狂気に陥れる、考えようによっては大変な危険を含んだ書物だ。彼はキリスト教徒でありながら、キリスト教会の2千年にわたる経験律を甘く見ていたのだ。

具体的なことは書かないけれど、2人の考えは、妙に偏っていたり、ゆがんでいたりした。私は彼らと話をしたあと、あんな方法で思考していて大学院が卒業できたということがとても不思議だった。その一方で、彼らの考え方をおかしいと評価できる自分が論文も書けずにいることは、納得のいかないことだった。しかし、これまでの読書と思索を総合してみると、どう考えたって、彼らはおかしい(今から考えてみれば、修士論文というのは、論文の書き方を学ぶのだから、結論があまりよくなくても、いちおう卒業はできるのだ)。

けれども、また一方では、修士論文を書き上げると、今まで知らなかったようなすばらしい知的世界が開けてくるのではないか、という幻想も抱くようになった。修士を終えたほとんどの人が、修士論文なんて論文の書き方を習うものだよと言っていて、私もきっとそうだろうと思っていたにもかかわらず、なんとなく、漠然とした期待感が、大気のように自分を覆うようになったのである。

しかし、実際に修士論文を書き終え、卒業できることになってみたとき、自分自身は単にひと仕事を終えただけで、新たな知的世界なんて全然見えないし、自分自身の知的成長もなかった、という現実に直面し、しばらく途方にくれ、落ち込んでいた。自分自身は何も変化していなかったのだ。どうやら私は、修士論文にあまりに多くのことを期待しすぎていたようだ。

また、論文が書き上げられたのは、指導教授の指導と、予備審査で他の教授たちから指摘された助言にほとんどを負っている。自力では何もできなかった。だからこそ今まで論文が書けなかったのだ。たしかに苦労したのは私だけれど、出来上がった論文を見るとき、これは自分の作品ではなく、教授たちの優れた直観力によって出来上がった作品だとしか思えず、こういう直観力が自分には欠けていることを自覚するのがひどく情けなかった。もちろん、論文を完成に導いてくださった教授たちには心から感謝しているけれども、視点を自分自身に向けると、絶望的な気分になってしまうのだ。

結局、教授たちが非常に優れていたから、私は論文を書いてみることができたのだ。予備審査のとき教授たちは、「こうやったらどう?」「こんな資料があるよ」と、まるで雑談中に思いついたことのように、気楽な雰囲気で、それらのアイデアを教えてくださった。私は「すごい!」と思いながら、教授たちの話すことを自分のレジュメにメモした。それらが私の論文を一変させ、そのときまでのつまらない結論から、実用的で面白い結論に変えてしまったのだ。

今後学会に加入して発表を続けていかなくてはならないのに、自分からは何もしたことのない学生が、新たなアイデアで新しい発見を発表していくことができるのだろうかと考えたら、誰だって気が滅入らずにはいられないだろう。

まあ、修士論文というのは、そんなものなのかもしれない。学べば学ぶほど自分の知識の足りなさを知るようになるというのは、洋の東西を問わず昔から指摘されてきたことだ。おそらく自分は、論文を書くことによって、学問の深さと広さと奥行きを目の当たりにし、自分の小ささにあらためて気づいて呆然としているのだろう。そう考えれば慰めにもなる。

そう考えてみると、修士論文を書き終えただけで、まるで一人前になったかのように振舞っていたあの2人は、やはりどこか変だったのだ。多分、学問に志している人で、修士論文を終えた人はたいてい、自分の足りなさを痛感し、それを埋めたいと思って博士課程に進むのだろう。それが正常だと思う。

そういうわけで、論文の書き方を習った私は、今度は本当に自分から研究していく実力を身につけるべく、基礎から勉強しなおさなければ、という気持ちを、新たにしたのでした……
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by ijustat | 2006-08-05 13:21 | Study