뿌리서점の主人から、ぜひ책방진호へ行ってみるといいと勧められていた。임종업氏の記事や최종규氏の記事を読んでも、책방진호はけっこうしっかりした人が経営していることが分かる。それに、どうもこの店は、사육신묘の斜向かいにあったときに何度か行ったことがあるようだ。それも確かめたいと思っていた。
노량진から장승배기길に入り、동작구청側の通り沿いの店をくまなく探したけれど、책방진호は見つからなかった。たまたま문화서점の前に出たので、そこに寄ってみたあと、장승배기길をさっきとは逆方向に走り、通り沿いの店をくまなく探してみた。すると、ほとんど노량진삼거리まであと150メートルぐらいまで来たところに、大きく「책」という文字が見えた。そして、看板を見上げると、「책방진호」と出ていた。そこで、近くの裏通りに車を止め、店に入ってみた。 もっとも、あとで최종규氏の記事を読むと、場所に関する説明があった。 이제는 동작구청 바로 건너편, 그러니까 노량진에 있는 '대성학원' 건너편이기도 한 그곳으로 헌책방 살림을 다시 꾸렸습니다.ちゃんと、동작구청の真向かいにあると書いてある。それを読んでおかないで、最初は동작구청のある側を一生懸命探していたのだった。こういう周到さに欠ける態度は、私の悪い点だ。 店に入ると、正方形に近い店構えの三方が床から天井まで本棚になっていて、中央はがらんとした空間になっている。そして、主人のいる机は右側の隅にあった。入り口の方には参考書が多いけれど、奥へ行くと、徐々に専門的な本が多くなっていく。主人の机の後ろには古い本が集めてあって、さらに、奥の部屋があり、そこには日本書籍・中国書籍・洋書などがあった。 店の中は、クラシック音楽が流れていた。音楽が終わると、이루마氏の静かで暖かい話し声が聞こえてきた。私の好きな「세상의 모든 음악」という番組だ。KBS클래식FMを聞いていたのだ。主人に親しみを覚えた。 私が本を見ている間に、若い学生風の女性たちが本を探しに来た。そのあとまた若い男女が本を探しに来た。本を買ったかどうかは注意していなかったので、覚えていないけれど、その中の一人が参考書の名前を言った。それに対して主人は、その本は最近は入ってこないと答えていた。 そのとき、主人は出前で取った食事をしていた。店の中は美味しそうな匂いが漂っていた。私は、一度見た棚をもう一度見、それからまた見回しながら、置いてある本に目を慣らしていた。奥の部屋を見直していると、『増補・改訂 新約ギリシヤ語逆引辞典』(岩隈直監修、山本書店、1977)があった。こういう本があることは知っていたけれど、ここで出会うとは。喜びながら、手に取った。 食事が終わった主人に、뿌리서점の主人にぜひ行ってみるように勧められて来ましたと言うと、そうですかと言い、私も뿌리서점には1週間に2度ぐらい行っているんですよと言った。私が、あの店は本を安く売るだけでなく、買い取るときも割りといい値段で買い取ってくれると言うと、뿌리서점の主人は本当にすばらしい人です、とほめていた。 そして、自分と뿌리서점の主人は同年輩だと言った。あとでインターネットの記事を探してみると、뿌리서점の主人は現在63歳で、책방진호の主人は61歳らしいことが分かった。満か数え年か分からないから、大雑把に“同じ”と思っているのが無難だろう。 この店が以前何度か来たことある店かどうかを確認した。今から20年近く前に、수산시장から出てくる道の反対側に古本屋があって、そこに何度か行ったことがあるけれど、そのお店ですかと尋ねると、そうだという。その場所で20年近く店を構えていたのだそうだ。 私が、その店にはいい本が置いてあって、当時、1910年代に出た英和対照新約聖書を5,000원で買い、それから『큰사전』全6巻もそこで買ったというと、それを買った日本人客のことを自分は覚えているような気がすると言った。私が値段まで覚えていて、主人が当時5,000원というのは安い値段ではなかったでしょうと言ったことに対し、それでもその本が5,000원というのは高かったと思わないと答えると、表情がとてもにこやかになった。 実際、뿌리서점の主人がこの店を推薦してくれたのも、日本の本の価値を見分けられる古本屋というのが理由だったし、최종규氏も先の記事で「'일본책 통'이라는 소리를 들을 만큼 책을 잘 알고 책을 아낄 줄 알뿐 아니라 책이 지닌 값어치를 소중히 여기는 참 멋진 곳입니다」と書いているように、책방진호の本棚にある日本書籍をよく探してみると、なかなか珍しい良い本が目に付く。そうやって私はずいぶん昔、今の文語聖書より古い訳の新約聖書を手に入れたのだった。 主人は、古本屋に来る客のことを「희귀 손님」と言っていた。稀に来る大事なお客様というわけだ。“희귀하다”という形容詞は、古本に使えば、ほしい人は多いけれど、手に入りにくい本のことを言う。大事なお客様といわれていい気分だったけれど、その一方で、お客が古本屋にあまり足を向けないことが残念に思われた。 ところで、その本が희귀본(稀少本)かどうかは、自分が持っていると分からないけれど、ほしかったり必要だったりして探し始めると、とてもよく分かる。同じ稀少本でも、高い値段で出回っているものもあれば、インターネットで検索し続けても在り処が分からないものもある。私がほしいと思っているのは、たいてい後者で、グーグルで検索したり、古本サイトの中を検索して回ったりしても、ずっと無しのつぶてだ。 同じように探し回っている人たちがいるのだから、出版社も再版してくれればいいのにと思うのだけれど、それに似たもどかしさを、책방진호の主人も感じているのかもしれない。もっとお客さんが来てくれればいいのに、と。だからこそ、自分の店に足を運んでくれる客を「희귀 손님」と呼ぶのだろう。 私が選んだ本の中に、일조각から出た이기문の「속담사전」があった。主人は、それを買うなら、同じ本の初版本はどうですかという。민중서관から出たものだ。値段を聞くと、일조각から出たものは7,000원だけれど、민중서관から出た初版本は2倍の値段だという。14,000원か。じゃあ買いますと答えると、主人は顔をほころばせた。私の考えでは、いい方の本が店から出て行ってしまうのは、古本屋の主人にとってもったいなはずだ。もっとも、そんな本があったら、店には出さないかもしれない。私が古本屋なら。 今日買った本は、次の3冊。 『俗談辞典』(李基文著、民衆書舘、1962。初版本) 『増補・改訂 新約ギリシヤ語逆引辞典』(岩隈直監修、山本書店、1977。1989年増訂3版) 『呂氏郷約諺觧(東洋學叢書 第五輯)』(檀國大學校附設 東洋學硏究所、1976。1984年2刷) 『俗談辞典』は韓国のことわざ辞典。この本には、なんと帯が残っている。そして、そこには「옛 祖上들의 입에서 입으로 傳承되어 내려온 우리 말의 精粹인 俗談 7,000餘를 5年餘에 걸쳐 全國的으로 蒐集하였다」と書かれている。 『増補・改訂 新約ギリシヤ語逆引辞典』は、ギリシア語聖書の全活用形が載っている単語集だ。基本的にアルファベット順の配列になっていて、活用形から原型を探すという意味での「逆引き」らしい。意味の説明はなく、数字だけが載っているけれど、その数字はこの辞書ではなく、『新約ギリシヤ語辞典』のページ数だそうだ。小口に各字母の見出しが付いている。ただし、この見出しのうちエプシロン(Ε, ε)の項が、クシー(Ξ, ξ)になっているのには驚いた。クシーの項を見たら、そこはちゃんとクシーになっている。 『呂氏郷約諺觧』は、1518年に경상도で出た本の影印本で、安秉禧氏の解題によると、「여기 影印하는 朱子增損呂氏鄕約諺解는 一五一八年(中宗 十三) 當時 慶尙道觀察使인 金安國이 慶尙道에서 처음으로 刊行한 책이다. 民衆의 敎化와 地方民의 相扶相助의 規約을 勸奬하는 國家施策으로 말미암아, 이 책은 그뒤로 여러번 重刊되었다」という。民衆教化のためだろう。漢文の原文に当時の韓国語訳が付されている。内容はまあ面白くないだろうけれど、貴重な韓国語資料の一つだ。この1冊の本に、数種類の版本が収録されている。 ことわざ辞典14,000원と、残りの2冊18,000원の両方で、32,000원だった。帰り際に名刺をいただいた。 책방진호の名前の由来について、임종업記者が2005年10月27日付の「헌책방 순례」に書いている。 책방이름 진호는 철진, 철호 두 아들 이름의 끝자를 땄다. 아무렇게나 책방을 운영하지 않겠다는 시작할 때의 다짐이다.その経歴も、けっこう長い。임종업記者の同じ記事に「팔리는 책과 팔리지 않는 책, 팔리지 않아도 좋은 책과 그렇지 않은 책은 금방 구별된다. 34년동안 밝힌 눈이다」とあり、「34년동안」と書かれているので、1971年頃に古本屋を始めたことがわかる。 それから、2002年7月13日に書かれた최종규氏の上の記事によると、「열아홉 해째가 되던 지난해 여름, 건물임자가 건물을 새로 지어야 한다고 하여 <진호서적>은 그 자리에 있던 역사를 접고 그곳에서 조금 떨어진 노량진초등학교 옆으로 가게를 옮겼습니다」とあるから、1984年に사육신묘の前に店を構え、2001年の夏に、その場所を引き払ったことになる。私はもっと前にその古本屋がなくなったと思っていたけれど、けっこう長らくそこにあったわけだ。私の記憶はなんといい加減なのだろう。 ところで、たった今引用した최종규氏の記事に、「진호서적」と出ている。これが現在の「책방진호」になったのは、2001年に引っ越してから1年も経たないうちにまた引越しを余儀なくされ、現在の場所に移ったときのことだそうだ。だから、たぶん2002年頃から今の名前を使っているわけだ。そのいきさつに関しても、최종규氏の記事に詳しい。 책방진호の住所は、서울시 동작구 노량진 1동 50-2。電話番号は、02-815-9363。メールアドレスは、booklove9363@hanmail.net。 ------------------------- 主人からもらった名刺には、インターネットの카페(コミュニティ)の住所がある。住所は以下の通りだ。 http://cafe.daum.net/jinho9363入ってみると、「冊房진호 카페입니다☞ ^^」という挨拶文が、右から左へ流れている。そして、その下に店名が漢字で「冊房眞浩」と出ている。なるほど、「진호」は漢字で「眞浩」と書くのか。 このサイトの「소장목록」というコーナーを見ると、「◐日書◑」とあって、日本の本ばかりが出ている。そこから目に付いたものを、登録日時が新しいものから順に、途中まで拾ってみた。 ダンテと其時代. 黑田正利. 警醒社書店. 近代英文學雜考. 富田彬. 著. 健文社. 日本繪畵史の硏究. 澤村專太郞. 石濤. 井上靖. 新潮社. 南總里見八犬傳 ①~④ 瀧澤馬琴. 作. <國民文庫刊行會> 造型美論. 高村光太郞 <筑摩書房> 古書七夕大入札會目錄. <明治古典會> 日本の名隨筆 別卷 12. "古書" 紀田順一郞 編 (作品社) 日本の名隨筆 別卷 34. "蒐集" 奧本大三郞 編 (作品社) 書誌學の回廊. 林望. (日本經濟新聞社) 本屋通いのビタミン劑. 井狩春男 (筑摩書房) 生涯を賭けた一冊. 紀田順一郞 (新潮社) 古本屋の蘊蓄. 高橋輝次. 編者 (燃燒社) ただ、これらの本が今も店にあるかどうかは分からない。いちばん新しい『ダンテと其時代』が2009年の5月で、最後の『古本屋の蘊蓄』は2007年の4月だ。古書に関する本が数冊あるのが目に付く。いいなあ。まあ、たぶんもうないだろうけれど、今度行ったら探してみよう。 『南總里見八犬傳』は、私は博文館で1913年に出た初版本を持っている。しかし、全3巻で3千ページ近くになるこの超大作を、第1巻の100ページぐらいまで読んで挫折した。何といっても、1話ごとにほとんど改行なく文章が続いている上に、人名が立て続けに出てくるので、そのうち誰が何をしたのかこんがらかってしまって、わけが分からなくなってしまったのだ。久々に取り出して開いてみると、186ページと187ページの間に栞が挟まっていた。本当に自分はここまで読んだのだろうか。 古本には、古本であることによる一種独特の風格というか、味わいがある。新刊書とは、まず紙の色が違い(色褪せてくる)、印刷が違い(活版印刷が多い)、製本が違い(背を縫い合わせた製本が多い)、もっと古くなると、表記も違う(旧漢字と歴史的仮名遣いになり、もっと古いと変体仮名が使われている。このぐらいになると、紙の劣化が激しくて取り扱いに気を使う)。岡崎武志氏がこんなことを書いている。 今回、文庫化してもらえるということで、ひさしぶりに元本の『古本病のかかり方』をひっぱり出してきたが、刊行から七年を経て、本文用紙がうっすらと退色している。変な話だが、なんだか古本っぽくなってきた。古本にはまった話をたっぷり綴ったあげくに、文庫本のあとがきに書いているものだ。岡崎氏の古本に対する溺愛ぶりが窺われる。 もう何年か前になるけれど、93.1MHz のKBS클래식FMで18時から20時までやっている「세상의 모든 음악」で、当時進行役をしていた김미숙氏が、新刊書として買った本も、年月を経るうちに本の古びていく匂い(책이 삭아가는 냄새)を漂わせ始めると話しているのを、運転中に聞いたことがある。김미숙氏の言葉なのか、放送作家の言葉なのかは分からないけれど、本好きたちの情緒を刺激するいい話だ。私も、自分の部屋の扉を開けた瞬間にこの香りをふっと感じると、幸せな気分になる。 ------------------------- 2010年1月31日。知人の김완일氏と一緒に책방진호に来た。先日この店の인터넷카페で見た本があるかどうかを確かめたいと思ったのだ。ただ、ずいぶん時間がたっているので、たぶんないだろうなあと予想した。実際、日本の本のある棚を見ると、ほしいと思っていた本は1冊もなかった。そのうえ、この店は本の回転が早いようだ。前回来たときと、本の顔ぶれが少し違っていた。 前回は目に入らなかった『An Introduction to Modern Japanese』(Osamu Mizutani・Nobuko Mizutani共著、The Japan Times、1977。1989年35刷)があった。私はこの本の海賊版を、1993年2月25日(木曜日)に、신촌문고で買っている。でも、ここに本物があるので、私の本棚の海賊版と置き換えることにした。 本の底に「8」と書いてあるので、8,000원ですかと尋ねると、そうです。7,000원でさしあげましょうと言う。感謝。 主人の机のところで座って本を読んでいる初老の女性がいた。奥さんかと思って、その後ろにある昔の本は何ですかと尋ねると、私は客です(저는 손님이에요)という。申し訳ないことに、その女性はそのあと椅子を立ち、その脇にしゃがんで本を読み始めた。 入り口近くで参考書の棚の整理をしていた主人に、あの本は何ですかと聞くと、下ろして結わいてあった紐を解き、見せてくれた。主に日帝時代(植民地時代)に筆写されたり刷られたりしたした、和綴じ本だ。ハングルで綴られた、何だか読めない書きなぐりの肉筆本もあった。김완일氏も、判読できいない文字が多くて内容把握ができなかった。中には、非常に美しい筆跡で書かれた漢文の筆写本もあった。ある筆写本は表紙に「庚寅」を「寅庚」と書き誤り、矢印で修正していた。今年が「庚寅」だから、ちょうど60年前か、または120年前に筆写されたものらしい。 古書を見たついでに、主人は昭和6年(1931年)に刊行された『三國史記』の翻刻本を見せてくれた。朝鮮総督府で刊行したものだと言う。全9巻で、そのうち1冊に欠落したページがあるので、それを修復して600,000원で売る予定だと言っていた。日本ではこの本は、ばらで(낱권으로)売られていることが多いという。ばら売りでは意味がないではありませんかと答えると、その通りだと言った。でもまあ、ばらでも捨てずに売っていれば、篤志家は何とかそれを買い集めて全巻揃えることも、不可能ではないだろう。そういう意味で、ばら売りにも意義はありそうだ。 主人が『三國史記』を600,000원で売るといったことから、私の関心がある韓国語学関係の本に関する話をした。최현배の『우리말본』初版が、노마드북で500,000원だったという話をしたら、不当に高い値段(바가지)だと非難した。しかし、解放前に出た『우리말본』の値段は、安くて150,000원から高いもので300,000원だ。その中で初版が500,000원というのは、あながち不当でもないのではないかと思うといったけれど、たぶんずっと売れないでしょうよと言う。(それから2日後の2月2日に노마드북のサイトに入ってみると、この初版本はすでに売れていた) もっとも、노마드북がいつも高いわけではなく、허웅の『國語音韻論』は대방헌책で20,000원だけれど、노마드북ではそれより状態のよいものが10,000원だったというと、あれはいわば“쓰레기”で、そのようなものにそんな値段を付けるのは間違っているといった。 私はそれを聞き、まず、たいていの古本屋で見かける『국어음운학』と混同しているらしいと思った。そして、本を流通するモノとしては認識するけれど、学問的な価値については認識していないことを強く感じた。허웅の『國語音韻論』が“쓰레기”なら、古本屋で珍重している“쓰레기”はたくさんあるだろう。(もっとも、本のモノとしての価値とコンテンツとしての価値の違いを책방진호の主人が心得ていることは重々承知だ。ただ、古本屋の主人として、需要と供給の関係から、モノとして本を捉える態度に徹しているのだ。客はそれを理解して聞く必要がある) 値段が高いといえば、박대헌氏の호산방がある。その話をすると、彼は30年後を見据えて値段を考えると言うけれど、私の考えでは自分勝手に値段をつけているとしか思えませんね、と言って、かなり悪く言っていた。 ここでも私の発見した“法則”が当てはまっていた。商売の仕方が異なる古本屋について話をすると、たいていその古本屋を激しく批判するのだった。自分とは違うやり方の古本屋を批判せずに、その価値を認めようとするのは、뿌리서점の主人ぐらいだ。実に私は、この同業者批判を聞くことで、韓国の古本屋の多様さを学んでいる。 私が인터넷카페で見た本が店頭になかったという話をすると、その本は別の場所に保管してあるのだという。そうか。売れてしまったかもしれないけれど、今度来るときは、目をつけておいた本の目録を持っていってみようと思う。 ------------------------- 2010年3月20日、土曜日。달마헌책방へ行った帰りに、책방진호に立ち寄った。 まず主人に、インターネットに出ている本のうち、ほしいと思った数冊の目録を見せて、これはまだ買えますかと尋ねた。見せた目録は、次の通り。 『日本の名随筆 別卷12「古書」』(紀田順一郞編、作品社) 『日本の名随筆 別卷34「蒐集」』(奧本大三郞編、作品社) 『書誌学の回廊』(林望、日本経済新聞社) 『本屋通いのビタミン剤』(井狩春男、筑摩書房) 『生涯を賭けた一冊』(紀田順一郞、新潮社) 『古本屋の蘊蓄』(高橋輝次編者、燃焼社) しかし、これらの本は、そのようにバラでは売らず、目録にある500冊を一緒に売るのだという。500冊だったら、すごい値段だ。それだけでなく、本を処分・整理しているというのに、そこへいっぺんに500冊も買い入れたら、家の中は収拾が付かなくなる。読んでみたい本だけれど、あきらめるしかない。 先日亡くなった僧侶の随筆家、법정스님の話をした。彼は死の前に、自分が書いたものをすべて絶版にせよという遺言を残したという。それについて책방진호の主人は、感情的になって吐いた言葉だと言い、その態度は不適切だったと主張した。 ちょうどそのとき、散歩帰りの老人が店に入ってきて、私がかばんを置いている椅子の上にどっこいしょと腰かけ、主人の話に加勢した。歯がないのか、私はその老人の言葉がまったく聞き取れなかった。 僧侶が死の前に自分の著作をすべて焼却したり破棄したりすることは、一つの伝統のようなものになっている。だから법정스님の態度が感情的なものかどうかは分からないけれど、彼の著作が韓国の読書人たちにしっかりと根を下ろし、出版界にも多大な利益を与えているだけでなく、韓国語の宝ともいえるものだということを考えてみれば、出版会に混乱を招き、読書人を狂乱させたその処置は、彼の人生の“아름다운 마무리(美しい仕上げ)”に染みをつけたといえる。 この日は、横溝利一の『實いまだ熟せず』(實業之日本社、1939)を買った。この本は1940年に刷られた40版だ。パラフィン紙で丁寧に覆われていて、後ろの見返しには、左肩に「京城本町光文堂書店」と刷られたシールが張ってある。主人に値段を聞くと、2,000원という。
by ijustat
| 2010-01-20 22:09
| Bookshops
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