古本屋の魅力

古本屋の魅力について考えてみた。

実は、こんなことを考えたのは、今が初めてだ。自分の買う本が新刊書か古本かということは、ほとんど意識していなかった。新刊案内などで面白そうな本や必要な本があったら、新刊書店へ買いにいくし、ほしい本だけれどもう出回っていない場合は、古本屋を回ってみる。それだけだ。

時には、書店に並んでいる本でもロングセラーなら、まず古本屋に当たってみることもある。以前、東京の書店で本を定価の700円で買い、その日に川越の古本屋へ行ったら、同じ本が300円で売られていた。それを見たときは、ショックだった。そういう苦い経験をしないためにも、まず古本屋へ行ってみて、なければ新刊書店へ行くべきだという教訓を得た。(その教訓は、すぐに忘れる。)

それに加え、最近は、本屋へ行かなくても、インターネットで新刊でも古本でも買えるようになった。だから、オンラインでもオフラインでも、新刊でも古本でも、それらは使い分ける道具ぐらいにしか考えていなかった。

そういうわけだから、ことさら古本屋の魅力ということを考えたことはなかった。知り合いや友人をソウル市内の古本屋に連れて行くときも、なぜ古本屋かなんて問いは、発しないどころか、心にも浮かんでこなかった。

しかし、韓国では、古本屋へ行く人は、古本屋がなぜ良いかということを強調する場合が多いような気がする。最近読んでいる、최종규氏の『모든 책은 헌책이다』(그물코、2004)でも、古本の魅力を強調していた。職場の同僚の先生も、以前私を誘って古本屋を回ったとき、なぜ古本屋が良いかという話をしていた。

これは、岡崎武志氏の『古本病のかかり方』(ちくま文庫、2007 <オリジナルは、東京書籍、2000>)とはだいぶ印象が違う。こちらは、古本によって面白い本を見つけていく面白さにのめりこんだ本で、私なども、その脈絡でソウルの古本屋を巡っているクチだ。

そんな風に、あまり深く考えていないと主張しながら、ふと気づいてみると、それは古本屋の魅力をたっぷりと味わっているのだった。だから、それについて考えてみることも、無駄ではないだろう。

古本には、新刊書では滅多に得られない2つの魅力がある。一つは、安さ。もう一つは、すでに市場から撤退した本が手に入れられることだ。

安いということは、古本屋の大きな魅力だ。新刊書店では、割引されてクーポンまで付いても、せいぜい1~2割りしか安くならない。3割安くなったら、大もうけだ。たとえば、今日は교보문고で、海外注文していた『フィンランド語は猫の言葉』(稲垣美晴著、猫の言葉社、2008<オリジナルは、文化出版局、1981>)を受け取った。この本は、課税前の定価が1,600円で、韓国での定価は27,520원だ。これは、円にすれば2千円以上になり、原価に30%ほど上乗せされている。ところが、今日は外国書籍を2割引でセールしていて、さらに私はマイレージポイントが1,000원あり、それにインターネットで買ったときにもらったクーポンチケットが1,000원分あって、それらを使ったら、20,020원で買うことができた。これは、課税前の定価よりも、ほんのわずかばかり安い。ずいぶん安く買えた気分になった。

でも、もしこれがソウル市内の古本屋なら、10,000원あれば買えるだろう。뿌리서점なら3,000원かもしれない。もちろん、ソウルの古本屋で『フィンランド語は猫の言葉』を手に入れることは、まず期待できない。だからこそ、海外注文をしたわけだ。

韓国の古本屋では、新品同様の本も、専門書でない限りは、半額以下の値段で手に入る。たいていの本は、もっと安い。絶版かどうかも、あまり問わない。というより、韓国はすぐに絶版になるから、それで無闇に値段を吊り上げていては、ただでさえ遠のきつつある客足が、ますます遠のいてしまうということだろう。(ただし、有名な本の初版は、高い値段がついていることがある。)

しかし、安さとはまた別のところにも、古本屋の大きな魅力がある。それは、市場から撤退した本を手に入れられる喜びだ。この場合は、値段が多少(あるいは、すごく)高くても我慢できる。

だいたい、関心分野のある人なら、ほしい本を手に入れようと思ったら、たいていは新刊書店にないことを知っているだろう。新刊以外は、かなりの名著でも、忘れたころに復刊するくらいだ。だから、図書館か古本屋に当たることになる。図書館では、本を貸してはくれるけど、譲ってはくれないから、その本を所有したいなら古本屋を調べなければならない。しかも、かなりの根気と忍耐をもって。

これはほしい本のある場合だったけれど、そうでない場合も、古本屋は楽しいのだ。それは、時代の束縛から自由にしてくれるからだ。新刊書店に並んでいるものは、その多くが最近書かれたものだ。古いテキストでも、印刷・製本されたのは最近であり、それは現在という時間によって意味づけされて、書店に並んでいる。だから、どれもこれも、“現在”という視点に縛られているわけだ。そこから自由になろうとするどころか、率先して時代に縛られようとしている。どんなにいい内容でも、どうせ買う人は100人か200人という場合は、出版される望みは薄い。

しかし、古本屋では、だいぶ状況が違う。韓国の古本は、たいていは1950年代以降に出たものだけれど、それでも同じ本棚に、60年もの溝をものともせずに、本が並んでいる。古本屋の中にいると、60年の時間の流れの中を、自由に往来できるのだ。日本の本などは、もっと古いものもけっこうある。そういう本にずっと接していれば、現代という時代の中で熱くなっている頭を冷ますこともできるし、この時代の中で見えなくなっているものを、もう一度見てみたいという気にもなってくる。40年も50年も前の本は、あるものはぜんぜん古く感じられないけれど、あるものは現在の私たちとは視点がかけ離れていて、むしろ新鮮ですらある。一見ばかばかしく感じられるけれど、逆に考えれば、仮に50年未来の本を読むという奇跡があったとしたら、その本の内容を、奇妙で馬鹿げた話に感じる可能性は、十分にあるわけだ。未来の本はともかく、そういう時間的多様性を経験できる場が、古本屋だ。

私の場合は、言葉に興味があるので、その興味も古本屋は満足させてくれる。書かれた年をさかのぼるにつれ、少しずつ使う言葉が今と違ってくる。これは韓国でも同じことだ。その言葉の違いが、紙の色だけでなく、本のデザインや印刷・製本の違いなどとも連動している。紙が茶色く焼けてくるにつれ、珍しい言い方が、だんだん増えてくる。表記も変わるし、書字方向も変わる。韓国も昔は縦書きの本が多かった。それを、翻刻でも写真版でもコピー版でもなく、現物で接することができるのだ。この魅力は、地方を旅行して、徐々に移り変わっていく土地の話し言葉に触れるような面白さとも似ている。

それを考えてみて、自分がなぜブックオフにあまり魅力を感じないのかが分かった。ブックオフには、新しい古本ばかりだ。だから、安いという魅力はあるけれど、胸をわくわくさせるような時間旅行はできない。せいぜい近郊へ日帰り旅行に行くといった程度か。もちろん、ブックオフが嫌いなわけではないし、行けば必ずいい本を見つけることはできるのだけれど、何箇所も古本屋がある場合は、優先順位からして後回しになってしまう。ソウルにも2箇所、북오프(ブックオフ)ができていて、日本語科の学生たちの間で評判だけれど、残念ながら私はまだその前を素通りするだけで、店の中には入ってはいない。その前にまず行ってみたい古本屋が、공씨책방、신촌헌책방、영광서점、문화서점、골목책방、우리서점、책방진호、통문관と、たくさん控えていて、북오프の前にはまだまだ何箇所もの、先に行きたい古本屋が待っている。

私にとっての古本屋の魅力は、そんなところだろうか。また新たな魅力を発見したら、そのときにまた書こうと思う。
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by ijustat | 2009-12-18 07:59 | Bookshops


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